よみ
| しながわ じんじゃ
|
|
参拝日
| 平成25年11月16日(土)
|
所在地
| 品川区北品川 3-7-15 (北緯35度37分6.6秒 東経139度44分22.2秒)
地図:地理院地図
いつもNAVI
|
HP
| 東京都神社庁 神社紹介 品川神社
Wikipedia
|
祭神
| 天比理乃命(あめのひりのめのみこと)
素盞嗚尊(すさのおのみこと)
宇賀之売命(うがのめのみこと)
|
由緒
| 郷社。境内の案内板には次のやうに記されてゐた。
品川神社御由緒
御祭神
・天比理之当ス(あめのひりのめのみこと) 天太玉命(あめのふとだまのみこと)(天岩戸の神話に登場する神様)の后神(きさきがみ)。
祈願成就・航海安全の神。 源頼朝公御勧請。
・宇賀之売命(うかのめのみこと) お稲荷様。農業・商業。産業繁栄の神。 二階堂道蘊(どううん)公御勧請。
・素盞鳴尊(すさのおのみこと) 天王様。風水害除け・疫病(病気)除けの神。 太田道灌公御勧請。
御由緒
今からおよそ八百年程前の平安時代末期の文治三年(1187)に、
源頼朝公が安房国の洲崎(すのさき)明神(現・千葉県館山市鎮座 洲崎神社)の天比理之当スを当地にお迎えして
海上交通安全と祈願成就を祈られたのを創始とします。
やがて、鎌倉時代末期の元応元年(1319)に二階堂道蘊公が、「宇賀之売命(お稲荷様)」を、さらに室町時代中期の文明十年(1478)に、
太田道灌公が「素盞鳴尊(天王様)」をそれぞれお祀りしました。
慶長五年(1600)、徳川家康公が関ヶ原の戦いへ出陣の際に当社へ参拝し戦勝を祈願され、その後、祈願成就の御礼として仮面(天下一嘗(てんかひとなめ)の面・
御輿(葵御輿(あおいのみこし))などを奉納されました。
また、寛永十四年(1637)三代将軍徳川家光公により東海寺が建立され当社がその鎮守と定められ、「御修覆所(神社の建物の再建・修復などは全て幕府が賄う)」
となり、元禄七年(1694)・嘉永三年(1850)の二度の社殿の焼失の際には時の将軍の命により再建が行われる等、徳川将軍家の庇護を受けました。
時代は明治に移り、同元年(1868)十一月には明治天皇様が、
新都・東京の安寧と国家の繁栄を御祈願されるために当社を含んだ都内の十の神社を「准勅祭神社」を定められ、御勅使(ごちょくし)が御参拝になられ御祈願をされました。
大東亜戦争の折は、当社は幸いにして戦禍を免れましたが、社殿の老朽化が進み、昭和三十九年(1964)氏子各位のご協力により現在の社殿が再建されました。
年間行事
(説明文の転記を略しました)
一月一日 歳旦祭
二月三日 節分祭
春分の日 七つ鳥居めぐり
四月十四・十五日 阿那稲荷神社春祭り
四月十五日直後の日曜日 春祭り
六月七日に近い日曜日を含む金・土・日 例大祭(北の天王祭)
六月三十日 大祓祭
七月上旬 富士塚山開き
七月十五日 祖霊社・忠魂碑慰霊祭
秋分の日 七つ鳥居めぐり
十月四・五日 阿那稲荷神社秋祭り
十一月二十三日 新嘗祭
十二月三十一日 大祓祭
|
|
雑記
| 富士塚(品川富士)には登ったのだけれど、写真に撮らうと思ったが良い角度が見つからなかった。
明治二年に造られ、明治五年に再建し、大正十一年道路建設で現在地に移されたといふ。
境内社には、富士塚の浅間神社、阿那稲荷神社があった。
板垣退助墓がある。自分には百円札の肖像でなじみがある。
|