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下高井戸八幡神社(東京都杉並区下高井戸)

作成日 平成30年6月23日
よみ  しもたかいど はちまんじんじゃ 地理院地図、東西 1.13km×南北 0.84km の範囲の地図です
(東西 1.13 km×南北 0.84 km)
参拝日  平成29年10月12日(木)
所在地  杉並区下高井戸4-39-10 (北緯35度40分31.09秒 東経139度37分49.50秒)
 地図:地理院地図  いつもNAVI
HP等  東京都神社庁 神社詳細 八幡神社  Wikipedia:下高井戸浜田山八幡神社  当社HP
祭神  応神天皇
由緒  旧村社
 社頭に教育委員会による案内文が掲示されてゐる。次のやう。
   下高井戸八幡神社
 この神社は、旧下高井戸宿の鎮守で、祭神は応神天皇です。
 社伝によると、長禄元年(1457)に太田道灌が江戸城を築いた際、工事の安全を願い、鎌倉の鶴岡八幡宮の神霊を勧請(迎えてまつる)して創建したといわれています。
 本殿は、棟札から弘化四年(1847)の再建であることがうかがわれ、現在の拝殿・覆殿は昭和三十四年(1959)に落成しました。
 境内には末社として、天祖神社・御嶽神社・稲荷神社のほか、当神社に功労のあった人々を祀る祖霊社があります。
 神田川沿いの台地や斜面では、旧石器時代から古墳時代に至る遺跡が各所で発掘されています。当社の近くからも集落跡が発見され、石器・土器等の出土もあることから、古くより人間が居住するのに適した環境であったことが窺われます。
 中世以降、村落の発達とともにこの地に神社が奉斎され、村の鎮守として尊崇を厚くしてきました。
 昭和初期まで当社の宮司を務めた斎藤守高氏(現宮司の曾祖父)は、俗に「面芝居」とも呼ばれた神楽の元締で、芸名を「中村縫之助」といい、鼓・太鼓・三味線に合わせて踊る芸の師匠でありました。
 面芝居は、明治末から昭和初期にかけて流行しましたが、今は絶えており、残された数個の面から往時をしのぶことができます。
   平成二十九年三月
杉並区教育委員会
 新編武蔵風土記稿(1)には次のやうに記してゐる。( )内は割注部分。
八幡社 (除地三段三畝十九坪村ノ北ノ方ニアリ僅カナル祠ヲ南向ニ立村ノ鎮守ニシテ宗源寺持)
稲荷社 (除地七畝六歩コレモ北ノ方ヘヨリテアリ村内修験本覚院ノ持)
 当社HPの由来・由緒によると、「明治25年には旧村内字四ツ割にあった稲荷神社(俚称田中稲荷、祭神受持神)を合併しました(明治12年には本殿[間口六尺、奥行三尺]で境内坪数一畝十六歩を有していた)」とある。
雑記  京王井の頭線の西永福駅から南西ないし西南西へ0.6kmのところにある。神田川の右岸で微高地となってゐる。

 「中世」とはなんぞや? 日本での始りは西暦900年乃至1100年ころ、終りは西暦1600年前後らしい。多神教のローマ時代から一神教のキリスト教が支配した時代と捕へてゐる私には、日本の中世と云はれても理解の出来ない言葉だ。日本には中世(本来の意味での中世、即ちヨーロッパの中世)が無かったからルネサンスも無かった(必要なかった)んだらう。仏教伝来から神仏は共存してきた。本来のヨーロッパの中世に某かの類似点を見てゐるんだらう。が、根本が違ふのだから同じ言葉を使用せず、その概念を現すもっと適切な言葉を使って欲しい。
 案内の文章にもどると、二段落目で太田道灌が勧請したとしてゐながら、「中世以降、村落の発達とともにこの地に神社が奉斎され」云々とあるのは当社の前身として、より古くから神社があったと云ふ趣旨なのだらうか?


 南へ歩くと玉川上水があると地図で知って、歩いてみたが、少し小高くなった細長い公園があるばかりで流れは見られなかった。後で調べたところ、当社の西北西2.4km当りから都心への流路は暗渠になってゐた。水番所のあった往時とは全く違ふのだらうが、一度は流れる水を見てみたかったので残念。

写真




写真左の石碑は「彰忠碑」で、小さく「希典書」とある。中央に、三個の力石。右に稲荷社。


脚注
  1.  新編武蔵風土記稿 巻之百二十五 下高井戸宿の条 内務省地理局による活字翻刻本から引用 (江戸幕府の昌平坂学問所地誌調所が編纂した地誌で文政13年(1830)に20年を経て完成)


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