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吉原辨財天(東京都台東区千束)

作成日 平成26年2月2日
よみ  よしわらべんざいてん
所在地  台東区千束3-22 (北緯35度43分18.3秒  東経139度47分35.9秒)
 地図:国土地理院ウオッちず(記号無し)  いつもNAVI(記号無し)
HP  
祭神  
由緒  
参拝日  平成25年5月6日(月)
雑記  吉原神社に合祀されたらしいが、社があり鳥居もある。 同じ一画に、大震災焼死者追悼記念碑(吉原観音)、花吉原名残碑がある。かつては池だったが埋立てられたといふ。
 吉原神社から南に300m弱のところにある。
花吉原名残碑

二神出世この方 男女相聞の道開け 日本国は常世の春となれり 中のころ江戸の発世に庄司甚右衛門といへる人あり 府内に一廓の遊所を開き  名づけて元吉原といふ 明暦三年故ありて廓この地に移り 名も新吉原と改む 爾来年と共に反映し やがて江戸文化の淵叢となれり  名妓妍を競ひ 万客粋を爭ひ 世俗いふ吉原を知らざるものは人に非ずと 開基以来火災を蒙ること十数度 震災又戦禍を受くるとも微動だもせざりし 北国の堅城も 昭和三十三年四月一日賣防止法の完全施行を期として 僅か一夜にして消滅し了んぬ 人為の天工を亡ぼす何ぞ甚だしきや  二万七千余坪の旧地悉く分散して 一基の碑を建つるは 麗人吉原が悲しき墓標の營みなりけりと云爾
 昭和三十五年五月二十一日
白面青客 山路閑古 撰並書
花吉原名残碑(はなのよしわらなごりのひ)
台東区千束三丁目二十二番 吉原弁財天

 吉原は、江戸における唯一の幕府公許の遊郭で、元和三年(1617)葺屋町東隣(ふきやちょうひがしどなり)(現中央区日本橋人形町付近)に 開設した。吉原の名称は、植物の葭(よし)の生い茂る湿地を埋立てて町を造成したことにより、初め葭原と称したのを、のちに縁起の良い文字に あらためたことによるという。
 明暦三年(1657)の大火を契機に、幕府による遊郭の郊外移転が実行され同年八月浅草千束村(現台東区千束)に移転した。これを「新吉原」 と呼び移転前の遊郭を「元吉原」という。
 新吉原は江戸で有数の有境地として反映を極め、華麗な江戸文化の一翼をにない、幾多の歴史を刻んだが、昭和三十三年「売春防止法」の 成立によって廃止された。
 その名残を記す当碑は、昭和三十五年地域有志によって建てられたもので、碑文は共立女子大学教授で俳人、古川柳研究家の山路閑古(やまじかんこ) による。
 昭和四十一年の住居表示の変更まで新吉原江戸町、京町、角町、揚屋町などのゆかりの町名が残っていた。
  平成十七年三月
台東区教育委員会


平成25年5月6日撮影

平成25年5月6日撮影

平成25年5月6日撮影

吉原神社
で頂いた 


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