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太田姫稲荷神社(東京都千代田区神田駿河台)

作成日 平成22年6月27日
追記日 ────────
よみ  
所在地  東京都千代田区神田駿河台1-2(北緯35度41分47秒、東経139度45分47秒)
HP  ─
祭神  宇迦之御魂神
 菅原道真公
 徳川家康公
由緒 村社。境内の掲示によると(縦書)、
太田姫稲荷神社縁起
    古社名一口稲荷(いもあらいいなり)神社
    御祭神宇迦之御魂神
         菅原道真公
         徳川家康公
 末社金山神社  金山彦命
    鎮座地  千代田区神田駿河台一丁目二番地
    氏子区域 千代田区神田駿河台一、二、三、四丁目
         千代田区神田錦町一丁目、小川町二丁目

 太田姫稲荷神社は、我国の数多い神社の中でも、きわめて豊かな霊験伝承と、古い由緒を持つ神社であります。
 神社に伝わる古絵巻と、「駿河台文化史」(昭和拾年神田史跡研究会)によると当神社の縁起は九世紀の伝説に始ります。
 百人一首の名歌で知られる参議小野篁(おののたかむら 802-852)は、その詩才は白楽天に比せられたほどで、平安時代第一の漢詩人といわれた実在の人物です。
 彼は、遣唐副史にまで選ばれましたが、上司の横車に対立して讒言され隠岐に流されたことは有名な出来事です。
 絵巻物の伝承によると、承和六年はじめ、篁が伯耆国名和港を出港してまもなく、海上にわかに、六、七丈の大波が荒れ狂い、雷鳴が激しく轟き、今にも海底に引込まれそうになりました。篁は衣冠を正して船のへさきに座り、普門品(ふもんぼん=観音経)を熱心に唱えていると白髪の老翁が波の上に現れて
 「君は才職世にたぐいなき人であるから流罪になってもまもなく都へ呼返されるであろう。しかし疱瘡を患えば一命が危ない。われは太田姫の命である、わが像を常にまつればこの病にかかることはないであろう。」と告げおわると八重の汐路をかきわけてかき消すように姿を消して行かれたという。そのお告げのとおり、篁は翌年はやくも都へ呼返されました。かれは自ら翁の像を刻み、常に護持していましたが、のちに、山城国の南にある一口(いもあらい)の里に神社をつくって、祝い祭ったということです。
 江戸の開祖として知られる太田資長朝臣(後の道灌)には最愛の姫君がいたが重い疱瘡にかかり世にも頼りなく見えたところ、ある人が一口稲荷(いもあらいいなり)神社の故事を話したので急便を使わして此の神に祈願した。使いは幾日もなくかの社から祈祷の一枝と幣を捧げて帰ってきたが この日からさしもに重かった病もぬぐうようにいえた。資長朝臣は崇敬の念篤く場内本丸に一社建立した。
 そのご道灌資長は此の社を敬拝し、また此の姫君は此の社を深く信心してつかえるようになったが、ある時この神が白狐を現して、われこの白の鬼門を守るべし、と託宣されたので、ついに鬼門に移して太田姫稲荷大明神と奉唱するようになった。今から約五四三年前第百三第後花園天皇の長禄元年(1457)のことである。
 慶長八年(1603)八月徳川家康公が江戸城へ入られた後、慶長十一年(1606)江戸城大改築を行ない場内にあったこの社を西丸の鬼門にあたる神田駿河台東側の大坂に移された。ためにこの坂は一口坂(いもあらいざか、後に鈴木淡路守の屋敷ができたので淡路坂ともいう)と呼ばれた。その後、代々の将軍これを崇拝し、その修理造営は徳川家が行い、僧職が別当となりて神明奉仕した。この社は駿河台の鎮守として数々の霊験厚く神威いちじるしきこと筆にも絵にもかきつくすことはできない、と古絵巻は伝えています。
慶応 二 年(1866)本郷春木町より出火、これが大火となって、ご神体を除神殿、末社、宝物什器及び別当居宅などを全焼し、
明治 五 年(1872)神社制度制定により神職司掌として神社奉仕をなす。
例祭日は毎年四月十八日と定められ、後に五月十五日とあらたむ。
大正十二年(1923)関東大震災で類焼。ご神体のみ無事に湯島天神社に避難する。
大正十四年(1925)仮社殿が落成しご神体を奉安す。
昭和 三 年(1928)氏子各位の寄進により、本社殿、神楽殿、御水舎、御輿庫、社務所、鳥居等新築さる。
昭和 六 年(1931)御茶の水駅、両国駅間の総武線建設のため社地の大半を収用され、鉄道省より換地として、現在の地を神社敷地に指定、一切の建造物をそのままに移転して今日に至る。
参拝日 平成21年9月21日(月)
雑記  このページをつくるに際して、「一口」について調べたが、定説は見つからなかったものの確かそうと思へたのは、つぎ のとほり。
 かつて、淀川と宇治の中間にあった巨椋池(おぐらいけ、昭和16年までの干拓で800haの湖が消滅した、遊水池の機能があった)の西岸を指す地名で、古くは「芋洗=いもあらい」と呼ばれてゐた。平家物語や吾妻鏡に記述があるといふ。その後、三方が沼で入口が一方だけだったので一口と書いた。しかし、呼名がそのまま残り「一口=いもあらい」となったのではないかといふ。
 疱瘡を「いもがさ、いも」ともいふこと、神社の霊験で治る(洗ひ流される)ことと関連づける説もある。

 巨椋池についは、そのやうな物があったとは、覚えがなかった。小野篁が、一口の地を社地に選んだのか判らないが、そのときの地形と、道灌が祈願したとき(一口表記の地名となってゐたとき)とでは大いに違ってゐたはずだ。豊臣秀吉が、築堤で大きく姿を変へたといふから。それにしても、地形が今とは違ふといふことは肝に銘じておかなければならない。


平成21年9月21日撮影

平成21年9月21日撮影


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