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日吉神社(神奈川県愛川町中津)

作成日 平成28年8月12日
よみ   地理院地図
参拝日  平成27年10月12日(月)
所在地  愛川町中津3708-12あたり (北緯35度30分30.85秒 東経139度19分58.92秒)
 地図:地理院地図  いつもNAVI
HP
祭神  
由緒  次の掲示があった。
 日吉神社の由来

 日吉神社の始りは、「山の神」を祀った小さな祠でした(神社の多くは、昔からその土地にゆかりの深い山や森などの自然を神として祀り、人々の心の拠り所となっている事が多い。) 八菅山に入って修行する修験者達は、坂本吹上にあった熊野権現を出発して八菅山に向う古道の途中に祀られていた「山の神」に道中の安全を祈りました。
 その後、江戸時代になり二井坂の地区も開墾が進むと、この「山の神」を「山王社」としてお堂に祀るようになりました。
 さらに、江戸時代の終り頃には「山王社」を現在の場所に移し地区の神社として祀るようになりました。この場所は、松樹山無量院というお堂の境内でした。
 明治時代になり「山王社」は「日吉神社」と名前を改め、今に至っています。ご神体は、円い鏡で現在は八菅神社の宝物館に納められ、今の建物は昭和四十二年に立て直されたものです。

     平成二十五年三月
         日吉神社 氏子 一同
         二井坂区 自治会

 新編相模国風土記稿巻之五十七の半縄村の条に「山王社 神體圓鏡(奉鋳山王宮之所、正保五年正月日、本願主常和作右衛門と刻す、子孫今村民也)を置く。別当無量院(略)」とある。
雑記  社殿の右側に大きな石碑がある。一部に「春日」と読めるが、何のことかと思った。背面の碑文と、掲示板「名桑『春日』の里帰り」を読んで判った。
 桑に沢山の種類があるとは思ってゐなかった。これを機に、桑について少し調べたが、我国で栽培されてゐる品種は数千種類に及ぶといふ。葉質の適否(季節・蚕の齢により異なる)・耐寒性・耐病性・収量・施肥効果・などの観点から選ばれてゐる。桑葉に代る人工餌も開発されたが、蚕業の凋落のため量産効果(価格低下)が出せず、蚕業の振興に至らなかったといふ。
  名桑「春日」の里帰り

 養蚕の際、蚕の餌となる桑の木、この一品種に「春日」という種類があります。明治期、本町で誕生した品種です。 国立中央蚕業試験場の品評会で優勝したこともありました。町内「春日台」地名の由来にもなった木です。
 昭和初期まで、かつての中津大地は、一面、桑の木で覆われていました。養蚕は、農家にとって、最大の現金収入の手段でした。その名残として、町内には、今でも桑畑が散見されます。しかし、新しい改良品種がほとんどで、春日の木は滅多に見られなくなりました。往時に比べると、隔世の感がいたします。
「春日」には「赤春日」「黒春日」の二種類があります。それぞれ二本ずつが、県農業総合研究所より、愛川町に里帰りしました。町では、「黒春日」一本を名桑碑が立っている二井坂子供広場に、「赤春日」一本を春日台の中津第二小学校に、残る赤・黒一本づつを古民家山十邸の庭に植えました。
 町の歴史を物語る桑の木を、ぜひ御観賞ください。

    平成十四年三月  愛川町教育委員会


名桑碑がある。碑文は読取れない文字が幾つもあったが、大凡の内容は判ると思ふので掲げる。
名桑春日已発見而三十五年年々歳々人不同伝説幾時耶村民相謀将樹碑
中邑伝其誌説挟請曰春日者河野_太郎之為発見也河野氏明治十年自○
戸移此地業種樹○夜恪勤鑽研而不捲○十八年氏所種苗有○○○○○○
無不活且碩茂以蕃氏欣然而曰得○種以桑葉大且柔軟命春日忽所好○○
也培者甚多保卅余年齢直径及尺余○現存者村内有数株偶大正五年於○
立中央蚕業試験場全国優秀者五十余中占冠位為偉名俄発場四海凡湘○
蚕家為観游及買苗者争迎取養視需要激増自中津年産及数十万而世人春
日之始原地不知為愛甲中津此我郷人之所憾也希獲銘辞以闡幽光焉余亦
同感然雖赴任未深乃村民拠所述不加意而茲有所譔而巳矣
 大正九庚申年三月 神奈川県愛甲郡長従六位勲五等 岡田純夫譔○書
                       中津村有志建設之
(転記に当り、漢字は通用字体を用いた。縦書を横書にした)



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