雑記
| 玉川と恩曽川が合流してゐる地点にある。隣には石井平氏の顕彰碑を平成元年に神奈川県相模川西部土地改良区が建ててゐる。
氏は、相模川右岸の潅漑に大きな業績を残し昭和63年に没した旨、碑文に記されてゐる。
用水の水量は右岸幹線水路は毎秒5トン、左岸幹線水路は毎秒7トン。
神社との関係は記されてゐない。
察するに、春には安全や豊作を祈願して、また水の恵みに感謝して通水式が行はれる。やうだ。平成26年は5月12日(火))[1]、平成27年は5月12日(火)[2]、平成28年は5月10日(火)に行われた。
近くに昭和用水合併記念碑がある。碑文は次のやう。
昭和用水合併記念之碑
本用水は従来其の水源を主として玉川小鮎川渋田川及び湧水に仰ぎたるも水量極めて乏しく之も改善は久しきに至る懸案たりしが大震災の為め其の水源たる山岳並びに水路は崩壊し殆ど用水断絶するに至れり因て県は之が救済策として震災復旧用排水事業を企図され大正十四年水源を中津川に求め地域内耕地整理事業と相俟て水路取入口井堰等の改良を行い昭和五年工事終了玉川沿岸耕地整理組合連合会が昭和用水普通水利組合に改組され一切を引継ぎ沿岸水田千余町歩の維持管理に当れり其の后中津川の河床低下し取水困難となり昭和十二年制水門を取入口に併設するも尚用水の不足を来たし昭和十九年戸田地内に揚水場を設け東部幹線を賄い中津川用水の大半は西部幹線に漑く然るに昭和二十七年土地改良法の一部改正に伴い相模川西部土地改良区と合併し昭和用水運営委員会を設け特別会計にて運営されたるも相模川右岸用水完成の為め茲に相模川西部土地改良区と名実共に合併するに到る
昭和三十五庚子年四月 漲洋 小泉照吉書
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背面には、旧中郡昭和用水普通水利組合役員の名が刻まれてゐる。
尚、玉川の流路変更は昭和21年に完工してゐる。それまでは、天井川で当社の西0.9kmの所を南流し花平塚市域で水川(金目川)に合流してゐた。
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