よみ
| すわじんじゃ
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所在地
| 海老名市中新田1549 (北緯35度26分27.1秒 東経139度23分2.2秒)
国土地理院ウオッちず
いつもNAVI
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HP
| 神奈川県神社庁 神社詳細 諏訪神社
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祭神
| 建御名方命 ( たけみなかたのみこと )
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由緒
| 境内の掲示より
諏訪神社由緒
お諏訪様 諏訪神社(すわじんじゃ)は、建御名方命(たけみなかたのみこと)をご祭神とし、海老名市中新田1549番地に鎮座する。
古来、中新田の地域及び住民を守護する産土神社(うぶすなじんじゃ)である。人々はお諏訪様と尊称する。
お諏訪様は、武将からの信仰もあったが、本来、風の神・水の神として信仰されて来たものであり、中新田という土地を開発した
農業をはじめとする産業の神といってよい。神社の祭事として、毎年七月二十七日の例大祭、歳旦祭・祈年祭・新嘗祭の外にも、
雹祭・虫除祭・風祭という農業祭を斎行する。
境内地は、一千坪を超える。右手に手水舎、また、左手に切妻造の神楽殿と社務所を配し、流造桧板葺の本殿を覆う覆殿・両流造
の幣殿・日吉造の拝殿の三棟一宇からなる社殿が真ん中に佇む。
御由緒 創建 大化の改新の後、海老名耕地の中央部の開墾によって、中新田の地域は誕生しました。その地名は、大縄崎村から
中新田村へと変遷した。この地の草創の頃、住民は、農業の安全と繁栄を祈り、諏訪大明神の神霊を勧請し、諏訪神社をご創建した。
室町 永享年間(1429-1440)以前から、厳然として、諏訪神社の鎮座する事を鷹倉社寺考は古志を基に伝える。爾来、中新田の
鎮守社として、別当寺の諏訪山東興寺と共に、住民や領主の崇敬の念篤く社運は隆昌するに至った事を新編相模風土記稿は記す。
明応年間(1492-1500)太守の大島豊後の守正時による社殿造営を社寺考は棟札を基に伝える。
江戸 元和六年(1620)、地頭の高木主水政次による社殿造立の棟札が残る。また、元禄十五年(1702)九月、地頭の秋元小左衛門
成朝による宮鐘の寄進を風土記稿は鐘名を基に伝える。社殿の再建及び修理について、明暦元年(1655)、貞亨三年(1686)、享保十三年
(1728)の棟札が残り、慶応二年(1866)の銘が向拝殿の装飾彫刻の裏面にある。
明治から大正へ 明治元年(1868)の神仏分離令により、諏訪神社は、東興寺と分離し、明治六年(1873)十一月、村社に列せられた。
明治十五年(1882)、社殿を再建し、明治四十二年(1910)、その設備を完成した。
大正四年(1915)九月、神饌幣帛料供進社に指定された。大正十二年(1923)の関東大震災により社殿をはじめ悉く倒壊したが、
翌年には、社殿と鳥居が再建された。
昭和から平成へ 第二次世界大戦の後、諏訪神社は、宗教法人となり神社本庁に所属する。氏子は、心の拠所として尊崇し、昭和
二十八年(1953)七月、境内を西側に拡張し、神楽殿を建築し、また、平成八年(1996)、社務所の再建、平成十六年(2004)、
社殿の修理及び幟竿・狛犬の整備、平成十七年(2005)、神楽殿の再建等、次々と境内の整備を進めた。
摂社・末社 境内末社 江戸の頃から「疱瘡神」(ほうそうがみ)を祀る。大戦後、事情により、近辺の稲荷社へ遷座された。
伊勢宮大神宮 天照大神をご祭神とし、延宝六年(1678)八月のご創建以来、諏訪神社への一時の合祀を除いて、中新田の
伊勢宮下に鎮座する。
川寿稲荷 倉稲魂(うかのみたまのかみ)をご祭神とし、文政八年(1825)、京都の伏見稲荷神社の神霊を勧請し、中新田の
河原宿のとうかの森に鎮座する。川は川原、寿は長寿に由来する。
山王日枝社・稲荷社 日枝社は、大山咋命(おおやまくいのみこと)をご祭神とし、宝永五年(1708)の創建以来、諏訪神社への
一時の合祀を除いて、稲荷社と共に、中新田の山王原に鎮座する。
平成十七年十二月吉日記
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参拝日
| 平成23年11月3日(木)
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雑記
| 厚木駅(小田急線・相模線)から南東へ600mの住宅地にある。住宅地を外れると水田が拡がる。
掲示板に出てくる、社寺は、当社から、
東興寺:南東へ200m、伊勢宮大神宮:西南西へ350m、川寿稲荷:南南西へ500m、
山王社:南へ1300mの所にある。
境内の別な掲示板には、13日(日)の七五三詣の案内ポスターが貼られてゐた。また、震災後の釿始式(大正十二年)の写真等が
貼られてゐる。この頃のことを覚えてゐる人がゐるなら100歳にちかいだらう。歴史を知ってもらはうとしてゐるのだらう。拝殿内に
かかげてゐる神社は多いのだけれどね。
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