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落合八幡神社(神奈川県秦野市落合)

作成日 平成29年11月4日
よみ  はちまんじんじゃ 地理院地図
参拝日  平成29年5月09日(火)
所在地  秦野市落合664 (北緯35度23分0.88秒 東経139度13分50.91秒)
 地図:地理院地図  いつもNAVI
HP等  神奈川県神社庁 神社詳細 八幡神社
祭神  応神天皇 ( おうじんてんのう )
由緒  旧村社。正式名称は「八幡神社」。
 社殿前の掲示板には次のやうにある。
八幡神社
御祭神  応神天皇(誉田別之命)
御神徳 家内安全・殖産興業・病気平癒・災厄消除・学業教育・安産子宝等。
境内社 金刀比羅宮(大物主神)稲荷神社(宇迦之御魂神)古峰神社(日本武尊)他に道祖神(青面尊・天社神等)の石塔が建つ。
例祭日 四月十四日
由緒沿革 秦野市落合の鎮守。元、八幡宮と称す。創立年代は不詳。但し、貞和五年(1349)に地元刀工の祈願が行われたとの古事が伝わるので、既にその頃より村の鎮守として崇敬されていたものと思われる。現在の檜皮唐破風の神殿(覆殿中)は永禄年代(1558〜1570)の建立で、光明院支配の頃の卍印が二個残され往時をしのばせる。尚、同院には徳川氏が当神社を保護した証である朱印状数種の写しが現存している。御神体は衣冠装束の馬上の木像。神殿左右に天王神。天神を奉斎する。明治六年、八幡宮を八幡神社と改称し、その頃の社格制度によって「村社」に列せられた。同四十四年、弊殿・拝殿の新築工事を奉仕。大正五年には、公共団体により神饌幣帛料の供進を受ける指定神社となった。昭和四十二年、拝殿等の改修工事を奉仕。翌年、神楽殿の修繕も為された。平成十九年、氏子・総代を中心とし、神殿の修復をはじめ、覆殿・弊殿・拝殿・手水舎の新築工事、併せて記念碑の建立、参道階段に手すりを設置するなど、大規模な造営事業を展開、翌平成二十年春より宮脇方式による植樹(千年の杜)を開始し、神社境内は一新された。
宮 司  草 山 清 和
連絡先 出雲大社相模分祠

 新編相模国風土記稿巻之五十二落合村の条には次のやうに載つてゐる。
八幡宮 村鎮守トス。神体馬乗ノ木像拝殿中ニ天王天神ヲ置。例祭八月三日社領一石ノ御朱印ハ天正十九年十一月賜ヘリ。拝殿神楽殿等アリ。光明院持。
 末社 稲荷 弁天
境内に社弁財天があり碑がある。碑文は次のやう。
弁財天再建記
古ク天明八年ヨリ落合村五十二名ノ共有地字奥笹川879番地三十七号ノ山林ニ祀ラレテ在ッタ弁財天ノ祠ガ昭和四十九年七月ノ水害ノ為土砂ニ押流サレ損傷ヲ受ケタノデ修復シ八幡神社境内 此ノ水域ノ地ニ移シ再建セシモノナリ
 昭和五十年八月
落合共有山管理組合
雑記  小田急線秦野駅から北ないし北北東へ1.5kmのところにある。

 この日は、歩くには遠く、自転車でも登り切れそうも無い坂道の、当社や蓑毛のお社を巡らうと思ひ立ち出かけてきた。タイヤの細い自転車に乗つてゐた30代の頃は、蓑毛(標高316m)を通りヤビツ峠(同761m)まで登つて、帰りは車に負けないスピードで下つたといふ無謀なことを何度もしてゐたところだ。人に衝突せずに良かつたと、本当に思ふ。今は、そんな体力は無い。
 秦野駅前からバスで参道入口近くまで来たが、実は、誤って違ふバスに乗った。そのため、遠回りし時間も運賃もかかつたが、昨年6月に自転車で通つた東田原神社・源実朝公首塚あたりを通り、このあと歩く予定の道を通るなど、意義はあった。バスは、当社から坂上にある神奈川病院を経由して急カーブの道をゆつくり下つてくる。参道を横切つたハズだが社殿が見えないかきよろきよろしてゐて気づかなかつた。バス停を降り、道は階段だけれど下つたのをまた登る事になつた。当社は、斜面の途中にあり人が通れるだけの細い道が神奈川病院の敷地まで通じてゐる。江戸時代からある道なのかもしれない。(この道は国土地理院の地図には表記されてゐる)

 別当だった光明院は当社から東北東へ0.15kmのところにある。 134m

写真

参道の始り、「落合鎮守 八幡神社」と記した木札が立ってゐる。

参道が道路で分断されてゐる。石製の社号標は、背面に「華表修理社号標奉額記念 昭和五十一年八月吉日建て之」とある。

向拝の扁額は「八幡神社」(草山貞胤謹書と添てある)

扁額は「八幡大神」


境内社。手前から金刀比羅宮、稲荷神社、古峰神社


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