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古峯神社(神奈川県秦野市寿町)

作成日 平成28年12月30日
よみ  ふるみね じんじゃ 地理院地図
参拝日  平成28年5月25日(水)
所在地  秦野市寿町3-9あたり (北緯35度22分26.97秒 東経139度13分35.08秒)
 地図:地理院地図  いつもNAVI
HP  
祭神  
由緒  
古峯神社縁起

御祭神 日本武尊(ヤマトタケルノミコト)
此の古峯神社の本宮は、栃木県鹿沼市古峯(コブ)ヶ原に、今を去る千三百年の昔、日本武尊を御祭神としてお祀りされている古峯(フルミネ)神社と申します。
 日本武尊は、第十二代天皇の皇子で心身共に優れた武勇の誉れ高き勇者にして、関東一円はもとより国家統一の為、大きな足跡を残されました。開運、防火、海上守護・商売繁盛・身体健全などあらゆる心願成就をみちびく神様として、信仰されている。
 昔、下曽屋地区は農業と商工業の家が建ち並ぶ静かな町でした。当時はほとんどの家が麦藁茅葺きの木造であり竈(ヘッツイカマド)で薪などを燃して煮炊きするのが一般的です。カンカンと半鐘が鳴ればまた下曽屋かと云われる程、この地区は本町地区内でも大変火災が多く、古老の石田茂吉・石田喜代二郎が中心となり、火災予防の良い方法が無いものかと相談の結果古峯神社が火伏の神として全国に知られ厚い信仰を仰いでいることを知り明治三十七年(1904)二月十三日、交通不便の時代、何日も掛けて御霊(オミタマ)を戴いて、御社を此の地に定めてお祀り申し上げたのがその始りである。当所は火災予防と家内安全、商売繁盛を主として、義太夫、田舎芝居などを奉納して近郷近在の人がお参りし夜遅くまで祝ったのである。
 大正十二年の関東大震災の時、地震の二次被害である火事が本町小学校裏手より発生し日の手は瞬く間に燃え広がりましたが、古峯神社手前で火は消し止められ当神社は火災を免れたのである。
この事に依って火伏の神としてのご神徳が広く知れ渡り、地元では、信仰と云うより畏敬の念となり、地域の守り神として根付いたと云う訳けである。昭和二十年以降に於ても二十数件が焼失する大火が発生し、下曽屋自治会方面に燃え広がっていた火の手が、自治会員の隣家で風向きが急に変り、自治会は無事でした。同じ様な例は他にも数例あります。
 当初は、定った例祭日はなかったのですが、昭和初期に関東大震災の前日に当る八月三十一日を、例大祭日として昭和六十年頃迄続いていましたが、その後子供達の夏休みの都合を考え八月第四日曜日とし、下曽屋自治会の一大行事として、神木と火災予防の願いを込めて盛大に祭りを実施している。
   下曽屋自治会古峯講 講中代表 石田正次

  平成十八年十二月吉日
雑記  小田急線秦野駅から北ないし北北東へ0.7kmのところにある。 鳥居は昭和三年七月吉日、鳥居の扁額は昭和二十二年八月、玉垣は平成十九年九月吉日再建。 縁起中にある震災に伴う火災は、271戸を焼失したといふ。そのころの秦野町は明治二十三年竣工の国内二番目の水道があったが陶管製で地震で損壊したため消火用水が不足したといふ。
 近年大火は滅多に発生しないが、12月22日に発生した糸魚川市の大火事(約150戸焼失)も強風・密集木造家屋・水不足と悪条件が重なった。幸な事は海岸線で延焼が止った事、死者がなかった事。大火は酒田大火(昭和51年、1774棟焼損)以来らいしいが、酒田のときも風が強かったといふ。被災された方はお気の毒です。
 私の出生地である江別市でも大火があったと聞いてゐた。父からだと思ふが、空が赤かったくらいな話しか記憶がない。調べてみると、昭和28年5月23日に227戸を焼失する大火があった。詳しく聞きたいと思っても物故してゐて聞きやうがない。(江別神社の参拝記を書く事があれば、再度触れたい)



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