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作成日 平成25年1月7日 |
よみ | おおとり じんじゃ | |
平塚市平塚2-20-5 (北緯35度19分39秒 東経139度20分16.9秒)
国土地理院ウオッちず いつもNAVI | ||
HP | ─ | |
祭神 | ||
由緒 | ||
参拝日 | 平成24年6月24日(日) | |
雑記 | 平塚駅から西へ1.0kmの、大鳥公園の隅にある。
社殿の左側に慰霊碑がある。表:震災遭難者之霊 裏面:為大正十二年九月一日遭難者追善供養建立 昭和四年九月一日 平塚貸座敷組合一同 とある。 神社のある平塚二丁目には昭和二十八年頃まで遊郭があり、大鷲神社は江戸吉原の大鷲神社と縁があるとか。 慰霊碑は嘗ては遊郭内にあったものが、その後ここに移されたとみられている。 ([資料]神奈川県平塚市での関東大震災の跡─慰霊碑巡礼の記録 鹿島小堀研究室竹村雅之ほか 歴史地震第25号(2010)91-100頁 より) 説明板があり次のやうに記されてゐる。 震災遭難者供養碑 大正十二年九月一日の正午頃、突如として起ったM7.9の大地震は、平塚町とその周辺に大きな 被害を与え、家屋は全壊又は半壊したものが多かった。当時の平塚町は戸数三千三百八十四戸、人口一 万八千五百十八人で、死者は二百七十五人を数えた。この内、焼死は一人で他は圧死であった。負傷者二百三十二人。 馬入鉄橋は川中に落ち、国道の馬入橋も全壊し、道路は各所で亀裂を生じ或は陥没して寸断された。 病院は負傷者を収容仕切れず、火葬場では死体の処理が間に合わない状態だった。圧死者を多く出した 平塚駅、紡績工場の惨状は云うに及ばず、たまたま当時全国殖産博覧会が平塚第一小学校(現崇善小学 校の前身)で開催中だったので、ここでも圧死者を出した。 平塚市観光協会
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平成24年6月24日撮影 慰霊碑は覆殿左側にある | 平成24年6月24日撮影 |