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鼻黒稲荷社 (神奈川県藤沢市藤沢)

参拝日 令和4年3月16日(水)
作成日 令和4年12月4日(日)
追記日 令和6年2月8日(木)
よみ  はなぐろいなり
概要  当社(鼻黒稲荷社)は藤沢市藤沢に鎮座する。由緒来歴不詳。梅毒患者が治癒を目的にお参りする神社でもあったらしい。(神社庁包括外社)  
所在地  藤沢市藤沢695
  (35度20分42.52秒 139度29分11.17秒)
地図:地理院地図(ズームレベル15)
   マピオン(ズームレベル15)  
地図  参拝当時の地図です。最新の地図は所在地欄のリンク先をご覧下さい。
地理院地図、東西 59km×南北 55km の範囲の地図です
・東西59km 南北55km
印:当社位置


地理院地図、東西 1.13km×南北 0.94km の範囲の地図です
・東西 1.13 km × 南北 0.94 km、
印:本殿の位置
    
HP等  ─
祭神  ─
由緒  境内に由緒等の掲示は無かった。
雑記   最寄駅は、東海道線藤沢駅・小田急線小田原駅が当社から南(172度)へ0.7kmの所にある。

 当社についてweb検索ではどのやうな神社なのか殆ど分らなかったが、次の一文があったので引用する(1)
「鼻黒稲荷大明神」の朱色の幟が掲げられたお堂があります。実は、性病の一つ梅毒患者が治癒を目的にお参りする神社でもあったのです。江戸時代、藤沢宿には娼妓が多数いました。鼻黒とは、鼻先が膿んで真っ黒になり、その後“落ちて”無くなるという。藩も厳しく取り締まりをしたそうですが、あまり効果がなかったそうです。これは地元のボランティアガイドさんに教えていただきました。
 湘南ふじさわウオーキング協会web内にも同様で、もう少し詳しい文書があった(2)


*自然災害伝承碑について
 参拝時の地理院地図には碑の地図記号は無かったが、当文書を作成に当って地理院地図をみると碑記号が載ってゐる。いつ載ったのだらうか、記号が今までの碑記号とはちょっと違うのはなぜ、と調べてみた。
 そしたら、新しい記号をつくり6月から掲載し始めたと分った。市町村からの申請に基づいて掲載するといふ。碑があっても存在が知られてゐなかったり、碑文を読んでゐなかったりで、防災に役立てるための取組みとして、標準地図に碑記号の記載と碑の概要(写真と100文字程度の説明)が表示できるやうになってゐる。
 当所の碑も、碑名・災害名・建立年・所在地・伝承内容「大正12年(1923)9月1日に発生した関東大震災により、旧藤沢町ではほとんどの家屋が倒壊し116名が犠牲となった。」・碑の写真が表示される。(写真4参照)

写 真  (拡大写真は新しいタブ又はウインドウで開きます)
写真1 写真1 拡大 (1280×960)
 藤沢橋交差点の境川側から撮影。
 少し高い所に金砂山観音堂の屋根が見える。

写真2 写真2 拡大 (1280×960)
 参道入口
 「鼻黒稲荷大明神」と記された石柱がある。尚、反対側にも石柱があり「金砂山観世音」とある。

写真3 写真3 拡大 (1280×960)
 観音堂
 向って左側の赤い建物が鼻黒稲荷社の建物。「境内禁煙」札の後方、社殿の壁に沿って五輪塔ほかの石像物が九基おかれてゐた。

写真4 写真4 拡大 (1280×960)
 鼻黒稲荷社の社殿
 手前の碑は「嗚呼九月一日」と題し、碑背には「大正拾貳年九月壱日関東之地大震災・・・」と約400字の碑文と殃死(おうし)者として116名の氏名、賛助員の名が記されてゐる。碑文末には「昭和四年九月壱日 藤沢山主 大僧正 他阿尊光」とある。

写真5 写真5 拡大 (960×1280)
 御本殿

写真6 写真6 拡大 (1280×960)
 社殿前から階段方向を望む


出典・脚注
  1. 令和4年12月3日閲覧 Tripadvisor アジア>日本>関東>神奈川県>藤沢>藤沢市の観光スポット>きんささんかののんどう (ベルギー在住のフランス語話者を対象のwebページ)
  2. 令和4年12月3日閲覧 鼻黒稲荷 なぜ鼻黒なのか (湘南ふじさわウオーキング協会web内にあるが、HPからのリンクを確認出来なかった)

改訂記録
  • 令和06.02.08 ページ内の配置変更(スマホでの閲覧に配慮)。概要欄作成と記入。

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