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舩玉神社 (神奈川県藤沢市大鋸)

参拝日 令和4年3月16日(水)
作成日 令和4年12月10日(土)
追記日 令和6年2月8日(木)
よみ  ふなだまじんじゃ
概要  創建時期、経緯不詳。源実朝が造船を命じ材木の切出しや造船等があり賑ひを見たが、その頃、舟中の守護神として舩玉神社を創立したものと思はれる。  
所在地  藤沢市大鋸(だいぎり) 2-4-12
  (35度20分40.17秒 139度29分16.58秒)
地図:地理院地図(ズームレベル15)
   マピオン(ズームレベル15)  
地図  参拝当時の地図です。最新の地図は所在地欄のリンク先をご覧下さい。
地理院地図、東西 59km×南北 55km の範囲の地図です
・東西59km 南北55km
印:当社位置


地理院地図、東西 1.13km×南北 0.94km の範囲の地図です
・東西 1.13 km × 南北 0.94 km、
印:本殿の位置
    
HP等  神奈川県神社庁 神社情報 船玉神社
 Wikipedia:船玉神社 (藤沢市)
祭神  弟橘姫命 (おとたちばなひめのみこと)
由緒  境内には自治会による掲示札が立てられゐる。文面は次の様。
舩玉神社(ふなたまじんじゃ)

祭神は弟橘姫命(おとたちばなひめのみこと)です、神社前の道は鎌倉街道で腰越又は深沢を通って鎌倉へ入ったようです、 昔は江ノ島から、この付近まで船がでいりしていたといわれ、鎌倉三代将軍・源実朝(みなもとさねとも)が船を造らせたとき材木を切り出したところと伝えられています、ここは大鋸(だいぎり)という地名ですが「大鋸引き」(おおがひき)という職人たちが住んで船大工や玉縄城の御用などをしていたといわれています。

藤稲荷大明神
(転記略)
船久保町内会自治会

 『神奈川県神社誌』(昭和57年)には次の様に載ってゐる(1)
天文五年(一五三六)小川無逸編輯の『鶏肋温故』によると「八四代順徳帝の建保四年(一二一六)の春、右大臣実朝卿夢の告に依て入宋せん事を企給う。諸臣大いに驚き種々諌言すれど用いられず。依てひそかに事を計い将軍の御意に随う。将軍家の御渡海の事なれば、容易ならず。先ず木材を撰んで御乗船を堅固に造るべき由仰出され、諸匠人を集めておたずねあるに、鎌倉より戌亥に当り、僅か二里ほどにして谷谷に大いなる樹木ある由をのぶ。依て早々人夫数百人を遣して日夜材木を切り出し、是を筏に組み、谷川を下して由比浜に引上げ、日ならずして出来る。その舟堅固なれ共、重くして海に入れて浮ばず、彼是して月日を過す内に入宋の企は止まり。材木を伐りしと云処は、今の舟久保町、大鋸町、瑞光町の辺りにして、その砌りは人夫の小屋、又其の掛りの役人奉行等の旅宿等出来、殊の外賑わいし由、古老の口碑に伝えたり」、とあり、按ずるにその頃は、この辺は深山にして、大きな材木も沢山あった事と思われる。以上の次第で舟中の守護神として舟(ママ)玉神社を創立したものと思われる。

 『新編相模国風土記稿』には「船玉社」と名のみ載ってゐる。(2)
雑記  最寄駅は最寄駅は、東海道線藤沢駅・小田急線小田原駅が当社から南(184度)へ0.6kmの所にある。

 今年の大河ドラマは「鎌倉殿の13人」で実朝の渡宋計画の一環で船造をしたが進水出来なかった場面が描かれてゐた。本編放送後の紀行(NHKwebページ参照(3))で当社が紹介されたといふが、残念ながら観てゐなかった。

社名の「舩」の文字は鳥居の扁額・本殿前に置かれてゐる扁額、由緒立札、改築記念碑(昭和六十年)の表記で使はれてゐる。

写 真  (拡大写真は新しいタブ又はウインドウで開きます)
写真1 写真1 拡大 (1280×960)
 社頭

写真2 写真2 拡大 (1280×960)
 社殿正面

写真3 写真3 拡大 (1280×960)
 拝殿内、御本殿が見える

写真4 写真4 拡大 (1280×960)
 境内社
 二宮尊徳像がある。
 鳥居の礎石には「平成十四年十二月吉日竣工 舩久保町内会氏子一同」と記されてゐる。

写真5 写真5 拡大 (1280×960)
 拝殿前から入口方を望む


出典・脚注
  1. 『神奈川県神社誌』神奈川県神社庁編 昭和57年(1982) p.215
  2. 『新編相模国風土記稿』 巻之百三 大鋸村の条 (同書は天保12年(1841)完成。鳥跡蟹行社刊(明17-21)の活字翻刻本を引用。漢字は現在当用の字体に置換へた)
  3. 令和4年12月6日閲覧 NHK web内 紀行 第42回「神奈川県藤沢市・鎌倉市」

改訂記録
  • 令和06.02.08 ページ内の配置変更(スマホでの閲覧に配慮)。神社庁web神社情報のリンク修正。概要欄作成と記入。

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