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別地山王社 (神奈川県藤沢市大鋸)

参拝日 令和4年3月16日(水)
作成日 令和4年12月10日(土)
追記日 令和6年2月8日(木)
よみ  わけちさんのうしゃ
概要  当社(別地山王社)は藤沢市大鋸に鎮座する。慶長元年(1596)には撥塚山王権現社が氏神であったが徳川幕府の命により遷座し参詣に遠くなったため、安永九年(1780)頃、遊行寺が寺領に別社を勧請し、別地山王社が造営された。明治の廃仏毀釈により地元に譲渡され大光町の氏神となってゐる。  
所在地  藤沢市大鋸(だいぎり) 3-2-29
  (35度20分46.91秒 139度29分27.24秒)
地図:地理院地図(ズームレベル15)
   マピオン(ズームレベル15)  
地図  参拝当時の地図です。最新の地図は所在地欄のリンク先をご覧下さい。
地理院地図、東西 59km×南北 55km の範囲の地図です
・東西59km 南北55km
印:当社位置


地理院地図、東西 1.13km×南北 0.94km の範囲の地図です
・東西 1.13 km × 南北 0.94 km、
印:本殿の位置
    
HP等  神奈川県神社庁 神社情報 山王神社
祭神  大己貴尊 (おおなむちのみこと)
由緒  境内には、由緒が掲示されてゐた。次の様。(横書)
山王神社の由緒
 この山王神社(正式名は、別地山王社:わけちさんのうしゃ)は、旧相州鎌倉郡藤沢宿西村(明治になり西富に改称)の鎮守で、祭神は大己貴尊(おおなむちのみこと)で、別名は五穀豊穣・縁結びの神、そして医薬の神といわれる大国主命(おおくにぬしのみこと)です。
 俗称として、七福神のひとつ「大黒天」とも言われています。
 例祭日は6月14日ですが、6月第1日曜日に祭事を行っています。

 この山王神社の由緒ですが、南関東の地を治めていた後北条氏が滅ぼされた後、代わって徳川家康が関東の地を治めることになり、江戸城に居を構えました。
 その後、京との往来や鷹狩の際の宿泊所(御殿)が、慶長元年(1596年)に現在の藤沢公民館の北側にあった藤沢の氏神である撥塚山王権現社(ばちづかさんのうごんげんしゃ)の境内に造られました。
 その後、徳川の天下となった寛永11年(1634年)に、徳川3代将軍家光が朝廷より太政大臣という最高官位を授かるため江戸より京へ上洛するに当り、将軍家光の威光を示す御殿を新築するために、山王権現社は坂戸町の西の丘(旧県立藤沢高校の地)に遷座され、その後、明治初期まで鎮座しておりました。
 この山王権現社は、明治時代にこの地に藤沢町営実業女学校(県立藤沢女子高の前身)を造るため、白幡神社に移され合祀されました。

 坂戸町の西へ移されて以来、 西村・大鋸・大久保町辺りの住民より参詣するに遠いと の声が永らく多く出ていたため、 安永9年頃 (1780年頃)に遊行寺の藤沢山33世締如上人によって、鎌倉山之内往還(藤沢西村〜小袋谷)の街道筋で遊行寺の寺領である西村1番地(現在の大鋸3丁目2-29)に別社を勧請し、分地山王社が造営されました。それ以来、鎌倉郡藤沢宿西村・大鋸の鎮守さまとして、戦前まで瑞光の山王様と呼ばれ、例祭には芝居小屋や露店も出て近隣地域の多くの住民の参詣で賑わっておりました。
 明治初期の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)により、この山王神社と土地は遊行寺より当時の大門町(大光町の前身)に無償譲与され、現在は地縁団体である大光町内会の所有となっており、大光町の氏神となっております。
山王神社世話人会

 『神奈川県神社誌』(昭和57年)には次の様に載ってゐる(1)
境内社  稲荷神社
由緒沿革 『相模風土記』に清浄光寺持と見える。

 『新編相模国風土記稿』には次の様に載ってゐる(2)
山王社  清浄光寺持
註  清浄光寺:しょうじょうこうじ。通称、遊行寺(ゆぎょうじ)と呼ばれる。新編相模国風土記稿には29ページに渡り同寺の記述がある。
雑記  最寄駅は、東海道線・小田急江ノ島線藤沢駅で当社から南南西(200度)へ0.9kmの所にある。

 社名について、世話人会では「別地山王社」が正式名称としてゐるが、浸透してゐないやうに見える。バス停名は「山王神社前」、社号標は「山王神社」、鳥居の扁額は「山王神社」といった具合。文字数の都合もあらう。

写 真  (拡大写真は新しいタブ又はウインドウで開きます)
写真1 写真1 拡大 (1280×960)
 全景
 鳥居に隠れてゐる建物は大光町会館

写真2 写真2 拡大 (1280×960)
 社殿

写真3 写真3 拡大 (1280×960)
 建物の中の御本殿

写真4 写真4 拡大 (1280×960)
 境内社の御本殿。稲荷、諏訪、秋葉 の文字が見える

写真5 写真5 拡大 (1280×960)
    石像物写真 (1280×960)
 社殿に向って左奥には庚申塔等が集められてゐる。

写真6 写真6 拡大 (1280×960)
 社前から鳥居方を望む
 通路以外は、芝生となってゐる


出典・脚注
  1. 『『神奈川県神社誌』神奈川県神社庁編 昭和57年(1982) p.215
  2. 『新編相模国風土記稿』 巻之百参 大鋸村の条 (同書は天保12年(1841)完成。鳥跡蟹行社刊(明17-21)の活字翻刻本を引用。漢字は現在当用の字体に置換へた)

改訂記録
  • 令和06.02.08 ページ内の配置変更(スマホでの閲覧に配慮)。神社庁web神社情報のリンク修正。概要欄作成と記入。誤字訂正。

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