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御霊神社 (神奈川県藤沢市宮前)

参拝日 令和4年4月1日(金)
作成日 令和5年2月7日(火)
追記日 令和6年2月5日(月)
よみ  ごりょうじんじゃ
概要  当社(御霊神社)は藤沢市宮前に鎮座する。天慶三年、平良文(村岡五郎)が山城国京極の御霊神社(京都市上京区上御霊神社)より勧請した。後、鎌倉権五郎景政、更に葛原親王 高見王 高望王の三柱を加へ五座となったる。県下に十三の分社がある。  
所在地  藤沢市宮前560
  (35度20分14.70秒 139度30分30.46秒)
 地図:地理院地図(ズームレベル15)
    マピオン(ズームレベル15)  
地図  参拝当時の地図です。最新の地図は所在地欄のリンク先をご覧下さい。
地理院地図、東西 59km×南北 55km の範囲の地図です
・東西59km 南北55km
印:当社位置


地理院地図、東西 1.13km×南北 0.94km の範囲の地図です
・東西 1.13 km × 南北 0.94 km、
印:本殿の位置
    
HP等  神奈川県神社庁 神社情報 御霊神社
 Wikipedia:御霊神社 (藤沢市宮前)
祭神  崇道天皇 (すどうてんのう)
 鎌倉権五郎景政 (かまくらごんごろうかげまさ)
 葛原親王 (かつらばらしんのう)
 高見王 (たかみおう)
 高望王 (たかもちおう)
由緒  境内の石碑には次の様に刻まれてゐる。
(本社 写真4参照)
御霊神社
御祭神 本殿五座
崇道天皇 光仁天皇第二皇子早良親王
権五郎景政
葛原親王
高見王
高望王
境内副社
十二天王 疱瘡神 笹折矢竹稲荷 七面宮
祭日 毎年九月十八日
由緒沿革
御祭神崇道天皇は桓武天皇が御宇延暦十三年五月現在の京都市に御霊宮として祀り給い其の後この村岡に五郎良文公が住し天慶三年に勧請し戦勝祈願をなしたるを始めとす
のち鎌倉権五郎景政を合せ祀り二柱たりしが北條時頼の命により葛原親王 高見王 高望王の三柱を加へ県下に十三の分社あり
その後村岡ヶ村総鎮守として現在に至つている
(境内社 折笹矢竹稲荷社)
折笹矢竹稲荷大明神と兜松
 永保三年(1083年)、奥州で後三年の役がおこり、その戦に陸奥守兼鎮守府将軍であった八幡太郎義家がここ御霊神社東側の旗立山にて兵を集めました。
 当時、十六歳であった鎌倉権五郎景政も初陣として参戦しましたが、奥州仙北郡金沢の柵の合戦において、敵である鳥海弥三郎の放った矢により右目を射たれました。しかし景政はその矢を引き抜いて射ち返し、見事に討ち取ったという武勇伝が伝えられています。
 戦に勝利した景政は、ここ御霊神社に戦勝のお礼参りに訪れたとき、持ち帰ったその矢を境内に刺しておいたところ、青葉が生えてきました。そこを折笹矢竹稲荷大明神として奉られています。今でも神社の裏山には矢竹が生い茂っています。
 また、その時の兜も松の木の根元に勝利の記念として埋めました。その木は後に兜松と呼ばれています。
   平成二十二年六月吉日 寄贈 村岡郷土史研究会 広田隆義
(境内社 兜山七面宮)
兜山七面宮
 鎌倉権五郎景政の兜を埋めし処の塚、八幡太郎景政と誓いの松榎の大樹有り、兜松と云う、兜山に大松ありこれを兜松とよんでいた。
 鎌倉権五郎景政が後三年の役(1083)の時祈願した宮前御霊神社に戦勝の報告に参詣された記念に、兜山に兜を埋めたと伝えられている、兜山に七面宮があり安政年間(1854)大嵐で破損し、当御霊社の境内に移したという。

 『神奈川県神社誌』(昭和57年)には次の様に載ってゐる(1)。( )内は割注部分。
由緒沿革 天慶三年(九四〇)村岡城主・村岡五郎平良文公が、天慶の乱(平将門の乱)の鎮定に際し、山城国京極の御霊神社より勧請した。後に鎌倉権五郎景政、葛原親王、高見王、高望王を加え五座となった。

 『新編相模国風土記稿』には次の様に載ってゐる(2)
御霊宮 村岡郷五箇村ノ総鎮守トス。天慶三年村岡五郎良文ノ勧請ニシテ後鎌倉権五郎景政ノ霊ヲ合祀シテ二座トシ又北條時頼カ命ニヨリ葛原親王高見王高望王ヲ加ヘ総テ五座ヲ祀ルト云フ。例祭八月十八日。社傍二小菴アリ御霊菴ト号ス。神職ハ鶴岡職掌子坂伊予兼管ス(家伝ニ祖ハ倉岡次郎忠頼ヨリ出テ仁安中当社ノ神職トナリ世々コゝニ住セシカ。治承ノ頃鶴岡ニ移リテ職掌トナリ元弘中再当所ニ還住シ文禄中旧二復シ雪ノ下ニ転住シテ今ニ至ルト云フ)
 末社 疱瘡神(景政ノ勧請ト云フ) 矢竹稲荷(社傍ニ篠竹生セリ。権五郎景政鳥海弥三郎ニ射ラレシ矢ヲ爰ニ挿セシカ枝葉ヲ生セシト伝フ)
十二天王社 天神七代地神ヲ祀レルナリト云フ
 註 天慶三年 940年
   北條時頼 鎌倉幕府第5代執権 在職:1246〜1256年
   治承 1177〜1181年
   文禄 1592〜1596年
雑記  最寄駅は東海道線・小田急江ノ島線の藤沢駅で西(276度)へ距離1.9kmの所に、湘南モノレールの湘南深沢駅は東南東(119度)へ距離1.1kmの所にある。

 境内には、境内社の由緒をはじめ、多くの案内書の碑がある。既出のほか、記録してきたのは次のもの。
  • 旗立山の由来 源頼儀が前九年の役の出陣に当りこの山に白旗を立て軍勢を集めた等々
  • 神社正面旧階段の鎌倉石 慶応四年に切出した鎌倉石を村人が運び石工が施工した。摩耗が激しく昭和五十二年の神社屋根葺替(茅葺を銅板に)後白川石で改修した。 (註 白川石は京都産の花崗岩、昭和後半に閉山した)
  • 宮前鎌倉囃子保存会 鎌倉囃子は旧鎌倉郡一帯で行われてゐて、明治時代の当社宮司が近在に広めた。昭和五十六年に保存会が結成され、祭事等に参加してゐる。

 灯籠は江戸時代の物から平成のものまで何対もある。
 他に石碑「日露戦役記念碑」がある。「加藤雨舫書」とあるのでgoogle検索したものの人物は判らなかったが、「日露戦役紀念碑」を紹介してゐるページ(3)が見つかった。碑背の従軍者氏名も記載されてゐる。さらに碑の大きさを記載してをり、感心した。

写 真  (拡大写真は新しいタブ又はウインドウで開きます)
写真1 写真1 拡大 (1280×960)
 参道

写真2 写真2 拡大 (1280×960)
 鳥居
 柱には「明治二十五壬辰年九月十八日 建之」「総氏子中 昭和五十五年九月十八日再建 宮司吉田大謹書」と刻まれてゐる。

写真3 写真3 拡大 (1280×960)
 社殿への石段
 桜が綺麗に咲いてゐた

写真4 写真4 拡大 (1280×960)
 石段途中の踊場にある由緒碑

写真5 写真5 拡大 (1280×960)
 社殿正面

写真6 写真6 拡大 (1280×960)
 社殿、斜め前から撮影

写真7 写真7 拡大 (1280×960)
 境内社 疱瘡神 覆屋の中には木造の祠が在る
 疱瘡神右奥に鳥居があるのは十二天王社への道

写真8 写真8 拡大 (1280×960)
 境内社 本社の右手にある
 向って左側 折笹矢竹稲荷社
 右側 兜山七面宮

写真9 写真9 拡大 (1280×960)
 兜山七面宮 覆屋内の御本殿

写真10 写真10 拡大 (1280×960)
 境内社 十二天王社

写真11 写真11 拡大 (1280×960)
 社殿前から鳥居方を望む
 灯籠は、大正四乙卯年九月十八日建之との年記、がある。逗子町・戸塚町・鎌倉町・東京牛込原町等地元外の方々の名も刻まれてゐる。

写真12 写真12 拡大 (1280×960)
 鳥居付近 参道入口方向を望む
 写真左側の建物は、宮前町内会館・御霊神社社務所


出典・脚注
  1. 『神奈川県神社誌』神奈川県神社庁編 昭和57年(1982) p.230
  2. 『新編相模国風土記稿』 巻之百三 宮前村の条 (同書は天保12年(1841)完成。鳥跡蟹行社刊(明17-21)の活字翻刻本を引用。漢字は現在当用の字体に置換へた)
  3. 令和5年2月6日閲覧 webページ「日露戦役紀念碑(御霊神社)」  サイト『東京湾要塞 ─神奈川、千葉、東京の戦争遺跡─』内 デビット佐藤

改訂記録
  • 令和06.02.05 ページ内の配置変更(スマホでの閲覧に配慮)。神社庁web神社情報のリンク修正。概要欄作成と記入。
  • 令和05.03.18 由緒石碑の碑文転記に際し脱落(北条頼時の後の18文字)があり追記、変換ミス修正(6ヶ所の景正→景政)ほか。

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