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小糸神明社 (神奈川県藤沢市大庭)

参拝日 令和4年10月28日(金)
作成日 令和5年12月3日(日)
よみ  こいと しんめいしゃ
概要   小糸神明社は神奈川県藤沢市大庭に鎮座する。古来小糸村(大庭御厨の一部)の鎮守であった。土地区画整理事業を契機に社殿を新築し平成十三年完成した。  
所在地  藤沢市大庭 5244-6
  北緯 35度21分46.94秒 東経139度26分48.97秒
 地理院地図(ズームレベル15)
 グーグルマップ(ズームレベル14)  
地図  参拝当時の地図です。最新の地図は所在地欄のリンク先をご覧下さい。
地理院地図、東西 59km×南北 55km の範囲の地図です
・東西59km
 南北55km
印:当社位置


地理院地図、東西 1.13km×南北 0.94km の範囲の地図です
・東西 1.13 km×南北 0.94 km、
印:本殿の位置
HP等  神奈川県神社庁 神社情報 :なし
祭神  天照大神
由緒  境内の(社殿新築の)記念碑には次の様に刻まれてゐる。
由 来  皇大神宮宮司 関根正統
この地は古代の「大庭郷」ゆかりの地で平安時代に鎌倉権五郎景正が私領として開発し伊勢神宮に寄進した大庭御厨 その御厨内の郷村に神宮の分社神明宮が勧請された 小糸神明社の境内にはかって五、六百年を経た老松があり 由緒の古さを物語っている 古来旧小糸村(小糸。羽根沢・小ヶ谷)の鎮守として人々から深く崇敬されてきた 伊勢講での本宮参詣や本宮への御初穂がすすめられ神宮敬神への姿をみる 例祭は春祭としてこの地方でも特出したにぎわいを示した 幕末、明治、昭和の造営により本殿・拝殿・神楽殿・鳥居・狛犬・灯籠と境内の整備が行われた しかるに昭和四十七年市西部開発事業により周辺の環境は激変し 八十八段の石段を有した社地ハ切下げられ社殿も移築された これを契機に老朽化した社殿新築の気運が起こり 平成十一年に建設委員会が発足 翌十二年七月から奉賛の御浄財が寄せられ 本年二月本殿の上棟式が営まれた かくして平成十三年(2001)五月吉日に造営は完成した ここに当社の由来を記し 御神徳をたたえ国の平和、地区の繁栄、氏子御一家の安泰を祈念して建碑する
平成十三年五月吉日    湯山 學 撰文

 『神奈川県神社誌』(昭和57年)に当社の記載は無い。
 また、『新編相模国風土記稿』天保12年(1841)の大庭村の条(巻之六十)には、小名 小糸の名はあるものの、当社の記載は無い。
雑記  最寄駅は、小田急江ノ島線の善行駅で東へ2.4kmのところにある。 
 市役所は藤沢駅近くにあり、当社からは、南東へ4.8kmのところにある。

 神奈川県神社庁の神社検索で出てこないので、神奈川県の宗教法人名簿(令和5年1月1日現在)を見たが、当社は載ってゐない。立派な社殿等があるのに、宗教法人となってゐないのは合点が行かない。理由があるのだらうけど。
 

 由緒欄の「由来 皇大神宮宮司 関根正統」とある皇大神宮は、市内鵠沼神明2-11-5に鎮座する古社。
 また、「西部開発事業」とは藤沢市による「西部土地区画整理事業」で昭和46年から平成4年に亘って行はれた340ヘクタールを宅地や公園などの市街地化事業(1)


【大庭】について(2)
  • 縄文時代前期の土器片、弥生時代中後期・奈良時代の集落跡が確認されてゐる
  • 平安時代は大庭郷の中心
  • 平安時代末期から室町時代は大庭御厨(伊勢神宮の荘園)の中心
  • 江戸時代は大庭村で折戸・稲荷・台・谷・入・小糸の小名があった
  • 明治22年、町村制施行で明治村大字大庭となった。
  • 明治41年、明治村、藤沢大坂町および鵠沼村が合併して、藤沢町となる
  • 昭和15年、市制施行し藤沢市となった
  • 昭和46年〜平成4年、西部土地区画整理事業により市街化

写 真  (拡大写真は新しいタブ又はウインドウで開きます)
写真1 写真1 拡大 (1280×960)
 社頭

写真2 写真2 拡大 (1280×960)
 鳥居と社号標
 社号標は「神明社」、背面に「平成十三年五月吉日」とある。

写真3 写真3 拡大 (1280×960)
 社殿 正面
 狛犬は、「昭和十一年四月吉日」と年記がある

写真4 写真4 拡大 (1280×960)
 社殿 斜め前

写真5 写真5 拡大 (1280×960)
 社殿 側面

写真6 写真6 拡大 (1280×960)
 拝殿内

写真7 写真7 拡大 (1280×960)
 社殿前からの眺め
 鳥居をくぐって左手が出口

写真8 写真8 拡大 (1280×960)
 境内の碑
 向って右(社殿に近い方)から、
・招魂碑 大戦での戦没者十六柱が祀られてゐる。平成十三年五月吉日付
・中央は草書が読めない、碑背には明治十年西南の役従軍で肥後国にて戦死、明治三十七年日露戦役で旅順背面攻撃の際戦死、同三十八年日露戦役で奉天会戦の際戦死、と三名の戦死が記録されてゐる。
・左は「明治三十七八年 戦捷記念」碑 明治四十年三月建設


出典・脚注
  1. 令和5年11月24日閲覧 藤沢市web内 西部土地区画整理事業
  2. 令和5年11月24日閲覧 ウィキペディア 大庭 (藤沢市)

改訂記録
  • 令和06.01.20 ページ内の配置変更(スマホでの閲覧に配慮)
  •  〃    25 配置再修正


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