よみ
| こだまじんじゃ
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参拝日
| 平成25年6月9日(日)
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所在地
| 藤沢市江の島1丁目4-3(北緯35度18分1.7秒 東経139度28分51.3秒)
地図:地理院地図
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HP
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祭神
| 児玉源太郎命
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由緒
| 旧県社。境内の案内掲示には次のようにある。
児玉神社
御祭神 児玉源太郎命
御神験 勝利・英知・福運
例大祭 五月二日
児玉神社由緒
御祭神児玉源太郎命(一八五二 ― 一九〇六)は、明治陸軍並びに政府の中枢として○横の働きをされた偉人です。卓越した○略の才と
政治手腕をもって知られ、陸軍大臣・台湾総督等の要職を歴任。また教育文化の面でも成城学校第七代校長を務める他、郷里徳山に私費で図書館
(児玉文庫)を設立なさる等、前途有為な青少年の育成に尽力されました。
明治三十六(一九〇三)年、満州を占拠した大国ロシアが朝鮮半島支配を狙い、我国は国家の存亡を賭けてロシアと対決せざるを得ない局面を迎えました。
開戦当時、ロシアの圧倒的な軍事力の前に欧米諸国が悉く日本の敗北を予想する中で、世界的な戦術の権威であるドイツの軍人K・W・ヤコブ・メッケル
が、「日本には児玉がいる。児玉がいる限り日本陸軍が勝つ」と看破したことは有名です。はたして、御祭神は祖国に一身を捧げる決意のもと、
次期首相と目されながら内務大臣の職を辞し、自ら降格して大本営参謀次長となり、対露作戦指導に全力を傾注されました。いざ開戦となっては満州軍
総参謀長の印綬を帯びて出陣、見事祖国防衛の主導的役割を果されたのです。特に難攻不落と言われた旅順要塞の陥落は、御祭神の直接の指揮により
成功した作戦であり、日本の勝因のひとつとなった激戦として「二〇三高地」の名で知られています。
救国の英雄と讃えられつつ、御祭神は日露戦争で全てを燃焼されたかの如く、明治三十九年七月二十三日、五十五歳にして急逝されました。
三回忌を期し、親友であった杉山茂丸が、御霊をお祀りすべく向島の私邸に社を建立したのか児玉神社の端緒と考えられます。後年、御祭神が江の島の風光を愛でてたびたび訪れた
縁から、現在地に遷座されました。十三回忌に当る大正七(一九一八)年、公認神社への昇格誓願が内務大臣に受理されたのを受け、奉賛会長の
後藤新平を初めとして石塚英蔵(第十三代台湾総督)・小山健三(実業家、大阪財界の重鎮)・柳生一義(第二代台湾銀行頭取)・山本悌次郎
(台湾精糖常務取締役支配人)・荒井泰治(台湾商工銀行頭取)の計六名を発起人とし、社格(県社)にふさわしい社殿の新造営運動が推進された結果、
大正十年七月に主要社殿が建立されるに至りました。施工監督は横沢次郎(台湾総督秘書官)、土地約二千坪は中村豊次郎(初代の児玉神社総代)
の寄附でありました。
なお、発起人諸氏拠金として台湾銀行を始め多くの植民地関連企業とその関係者が名を連ね、献灯は観衆と台湾関係者で占められています。造営に際しても、
御祭神が九年間治政に当たられた台湾より幾多の寄贈を受けており、鳥居、灯籠の寄進にとどまらず、社殿は阿里山の檜を用いた総檜造です。
設計は伊東忠太工学博士(寺社建築の第一人者)が担当しており、ゆえに当社社殿は間然する所なき近代神社建築の模範と称えられています。
ちなみに、一部の鳥居と灯籠には徳山産の花崗岩が用いられています。
戦後の混乱期には境内が向拝の極みに達しましたが、徐々に復興か進められ、平成十四年には御生誕百五十年の記念大祭が斎行されました。さらに
平成十八年には帰天百年目の大祭を執り行いましたが、李登輝友の会のご尽力により、李登輝前台湾総統に「児玉神社」の文字を揮毫頂き、
扁額にお作りして拝殿に掲げ、御神徳を仰ぎ奉りました。勝利・英知・福運の神として、近年とみに内外の崇敬を頂いております。
平成二十三年 児玉神社社務所 印
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雑記
| 由緒の欄では、御祭神の功績を記した部分は略さうと思ったが、知らない人も多いのかも知れないと思ひ直し、全文を記載した。ガラスに光が入って文字
が読めないところもあったのは残念。
徳山産の花崗岩は国会議事堂にも使はれてゐるといふ。御祭神は徳山村(現周南市)出身。徳山市の他に徳山があるのかと思いきや合併で平成15年に徳山市が消滅してゐた。
国土地理院の地図には神社の記号がない。旧県社なのになぜ?と思ふ。現在は単立で、神社庁包括化にはないやうだ。
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