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西富岡八幡神社(神奈川県伊勢原市西富岡)

作成日 平成25年12月3日
よみ  はちまんじんじゃ
所在地  伊勢原市西富岡890 (北緯35度25分6.5秒  東経139度18分8.4秒)
 地図:国土地理院ウオッちず  いつもNAVI
HP  神奈川県神社庁 神社詳細 八幡神社
祭神  誉田別命 ( ほむだわけのみこと )
由緒  石碑が二つあり、それぞれ、以下のやうに書かれてゐる。
西富岡八幡宮合祀の由緒
相模国大住郡西富岡村には 昔から
八幡谷戸と当所の二ケ所に八幡宮が
あった 宝地の堀江政邦家文書の「
鎮守八幡宮棟札写」に依れば 江戸
時代初期の寛永十四年(1637)
十二月四日 西富岡村地頭の戸田七
内 水野藤太郎 氏子総代として 
堀江仁左ヱ門 小沢勘左ヱ門 増田
長左ヱ門 青柳与八郎 青柳助左ヱ
門の名がみえる
更に「地誌御書上帳」には 寛文九
年(1669)十二月 堀江左ヱ
門が大石灯篭を寄進したと記され 
下って江戸時代末の「新編相模国風
土記稿」によると 当所の下社が西
富岡村の総鎮守で 例祭は八月十七
日 御神体は木像 神楽殿 鐘楼の
外 神明 弁天 天王 疱瘡神 金
毘羅 稲荷の末社があり 宝蔵寺が
別当であった 八幡谷戸の上社は幡
蔵寺が管理していたが 明治維新の
廃仏毀釈に際し八幡谷戸の上社は当
社に合祀されて今日に至っている

  西富岡八幡神社の由緒
御祭神 誉田別命(御神体は木像)境内社に神明 弁天 天
王 天神 金比羅 稲荷 疱瘡神の各祭神を祀る
例大祭 八月十七日(新編風土記による)現在は四月四日
由緒 創立は詳ではないが 当地草創に当り氏子庶民の氏神
を奉斎したに始ると言う 即ち当社の例祭に当り 神事草
け分祭を奉行し 祖先の此の地を開いた功に報い 生存の喜
びを祝ったものである 時に班席というものあり 右一番増
田長左ヱ門 二番青柳助右ヱ門 左一番足立八左ヱ門 二番
堀江仁左ヱ門とあるは 当時の氏子総代責任役員で 祭祀の
祭の位置をしめすものであろう
又 文明年間 関東管領上杉定正の臣太田道灌が 下総の国
葛飾郡富岡八幡を此の地に遷座し 厚く尊信し これより富
岡村と呼び 元亀年間より西富岡村と呼ぶとも伝える
明応二年社頭修理 当地代官分米を寄進する
永正五年五月地頭所より修理費を献上 武運長久を祈る
天文十六年宮殿修理 地頭大草右近将監網輔代官内野孫右ヱ
門が寄進する
元亀三年八月社頭造営 地頭大草幸松が費用を寄進する
文禄五年社頭修理 足立主計 青八木助右ヱ門 青八木雅楽
助願主となり 草分祈願をする
徳川期に入り 地頭水野岩の丞が当地の産土神であることか
ら 年々初穂米四斗を献上して 武運長久と国土安泰を祈願
する
明治六年七月 村社と定められる
明治二十三年 本殿他全焼する
明治二十七年 本殿 幣殿 拝殿 境内社を再建する
明治三十三年 神楽 を再建する
明治四十三年 八幡谷戸の八幡神社(天文四年創立)を当社
       に合併合祀する
大正十二年  関東大震災の折 木像鳥居が倒壊する
昭和二年   本殿造営 屋根を亜鉛葺きとし 人造御影鳥居
       を再建する
昭和五十八年 神輿舎を造営する 境内面積は554坪20
             昭和五十九年七月吉日 氏子中
              八幡神社宮司鵜川 正 謹書
参拝日  平成25年1月26日(土)
雑記  小田急電鉄伊勢原駅の北ないし北北西に3.4kmの所にある。 碑文にある、寛文九年奉納の灯篭は鳥居の前にあり、昭和59年再建とある。鳥居には、大正十五年とある。


平成25年1月26日撮影

平成25年1月26日撮影

平成25年1月26日撮影

平成25年1月26日撮影


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