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龍口明神社 (神奈川県鎌倉市腰越)

参拝日 令和4年3月24日(木)
作成日 令和5年1月14日(土)
追記日 令和6年2月6日(火)
よみ  りゅうこうみょうじんしゃ
概要  当社(龍口明神社)は、鎌倉市腰越に鎮座する。創建は欽明天皇十三年(552)と伝はる。江の島の弁財天とは深い関係にある。元は、龍口寺の西隣にあつたが、津村の飛地だつた。昭和53年、現在地に遷座した。  
所在地  鎌倉市腰越 1548-4
  (35度19分5.63秒 139度30分25.33秒)
 地図:地理院地図(ズームレベル15)
    マピオン(ズームレベル15)  
地図  参拝当時の地図です。最新の地図は所在地欄のリンク先をご覧下さい。
地理院地図、東西 59km×南北 55km の範囲の地図です
・東西59km 南北55km
印:当社位置


地理院地図、東西 1.13km×南北 0.94km の範囲の地図です
・東西 1.13 km × 南北 0.94 km、
印:本殿の位置
    
HP等  神奈川県神社庁 神社情報 龍口明神社
 Wikipedia:龍口明神社
 当社HP
祭神  玉依姫命  (たまよりひめのみこと)
 五頭龍大神 (ごずりゅうおおかみ)
由緒  境内に碑があり、次の様に刻まれてゐる。
  記念碑
   龍口明神社由来
 御祭神 玉依姫命(神武天皇母君) 五頭龍大明神
 玉依姫命は海神族の祖先豊王彦命の姫君に在して彦炎出見尊の妃に在します上に鵜鷀草葺不合尊の母神に在しまし 豊玉姫の妹御に在し給ひ 龍神として尊崇された   五頭龍大明神の御由緒は欽明天皇十三年四月十二日戌の刻より二十三日辰の刻に至る迄大地震動して終日息す 即ち孤島を湧出した 此を江の島と云い天女降む 是辨財天女の作るところなり 天女悪龍の悪行を戒めた 龍は遙かに天女の麗質を見 村人はその山の海に突出した所の龍の口の様な岩上(龍の口)に社を築き白髭明神と称し村の安泰を祈願した 此龍口明神社の発祥と伝えられている
 養老七年三月より九月迄江の島の岩窟中にて泰澄 慈覚両大師が神業修行中夢枕に現れた神々を彫作し辨財天一体を岩本院に 二体を白髭明神へ納めた 即ち玉依姫命(長さ五寸)と五頭龍(長さ一尺)の御木造が御神体である 此の時 龍口明神社と名付け 江の島と当社の繋りと両地の平和と隆昌を祈願した 鎌倉時代には神護により如何なる悪行をした者も此処に血を流すことにより世人に尽すと此の前の地を刑場とした事もある 又氏子はその祟りを恐れ当社の移転改築を永年拒んできた 然し大正十二年関東大震災で全壊した社を昭和八年改築し今日に至つたが 境内地が藤沢市片瀬地域内の飛地津一番地に有ることゝ時代の推移と共に同地区の発展及び人口増加に伴い御祭神の御神慮に依り 此度氏子百余名は江の島遠望清浄地 龍の胴に当る蟹田ケ谷一五四八番地の四の当地に遷座申上げ 此の地の守護神として奉祀するものである

  昭和五十三年十月吉日 建設委員会誌

 『神奈川県神社誌』(昭和57年)には次の様に載ってゐる(1)
由緒沿革 縁起に依れば、欽明天皇十三年(六四一)(ママ)四月の創立といい、江島神女の霊感で降伏した深沢に棲んでいた五頭龍を祀るという,
 『相模風土記』に「龍口明神社 津村、腰越両村の鎮守なり(中略)津宝善寺持」とある。この地付近は、者(ママ)は津村の郷であり、安永二年(一七七三)片瀬村の領域に帰する事になったが神社地及び社有地は飛地として津村のものになっている。しかし神社地が氏子地区の辺隅である隣接行政地域に飛地として地理的に極めて不自然な形態をとって鎮座していたがため、氏子より遷座移転の要望が強く、氏子地域内に遷座する事を決定し、昭和五十三年九月三十日に遷座祭を斎行し神厳な威容をもって鎮座された。
 元指定村社で津村区の氏神社である。五頭龍降伏の伝説に伴い、江島神社六十一年式年大祭には必ず神輿が江の島に渡るを古例としている。

 『新編相模国 武蔵 風土記稿』には次の様に載ってゐる(2)
龍口明神社 津村 腰越両村ノ鎮守ナリ。社地元ハ当村 津村 腰越三村ニ接シテ所属定ラサリシカ、安永二年ノ 争論ヨリ当村ノ屬ニ定マルト云フ、神躰五頭ノ蛇形(長一尺秦澄作)ニテ白髭明神(長五寸同作)ヲ前立トス。相伝ヘテ欽明帝十三年江島神女ノ霊感ニ因テ、降伏セシ深沢ノ毒龍本宮(十五石)上宮(十石)両社の領交レリ(宝永三年十月御寄付アリテ四年三月社領に渡レリ)検地ハ寛文八年成瀬五左衛門重治改ム。又延宝二年貞享三年ノ両度ニ同人ノ糺セシ新田アリ。農隙ニハ漁釣ヲナシテ生産ヲ資ク。村西二流作場アリ片瀬川ノ対岸高座郡鵠沼村ノ地ニ接セリ(字川袋畑ト唱フ)飛地二所鵠沼村ニアリ
雑記  最寄駅は湘南モノレール西鎌倉駅で、当社から西北西(290度)へ0.3kmのところにある。

 当社は、昭和53年に江ノ電江の島駅近くの元宮から当地に遷座した。龍口明神社 元宮 (鎌倉市津1番地)へは、平成26年5月10日に訪れてゐる。それから8年も経ってしまった。

 昭和41年改測の地図には当地近辺には建物は無く、道路も無い。昭和53年の地図ではぎっしりと建物が並んでゐる。
 湘南モノレール江ノ島線は、大船─西鎌倉 間が昭和45年3月に開業、昭和46年7月には湘南江の島までの全線が開通してゐる。

 鎌倉の地名には、独特な読み方が有る。
 由緒卵の記念碑に出てくる「蟹田ヶ谷」、字名は「蟹田谷」で「がんだやど」と読む。鎌倉では、「谷」を「やと」と読むのは普通らしい。ただ、宅地開発に併せて出来たであらう公園の名は「がんだがや」となってゐる(がんだがや南公園・がんだがや北公園 等)。

写 真  (拡大写真は新しいタブ又はウインドウで開きます)
写真1 写真1 拡大 (1280×960)
 社頭
 鳥居:柱には「昭和五十三年十月吉日建之」と彫られてゐる。
 灯籠一対:鳥居の後ろには灯籠一対がある。一つは「奉納 江島鎌倉観光株式会社 昭和五十三年十月建之」と彫られてゐる。(江島鎌倉観光株式会社は昭和56年に江ノ島電鉄株式会社に商号を変更してゐる)。もう一つは「奉納 株式会社奥谷組 金森幸太朗 昭和五十三年十月建之」と彫られてゐる。(奥村組は寺社建築・修復を担ってゐる)
 社号標:背面には『昭和五十三年十月建之宮司相原雅道」とある。

写真2 写真2 拡大 (1280×960)
 二の鳥居
 一の鳥居をくぐり、右に向ひ、直ぐ左手に二の鳥居とその先の社殿が見える。
 鳥居の柱には「昭和五十三年十月吉日建之」と彫られてゐる。

写真3 写真3 拡大 (1280×960)
 社殿正面
 向って右手にみえる建物は社務所

写真4 写真4 拡大 (1280×960)
 御本殿

写真5 写真5 拡大 (1280×960)
 拝殿内

写真6 写真6 拡大 (1280×960)
 五頭龍大明神像
 全高2m50cm、材質 新ブロンズ 奉納日 2021年11月 (新ブロンズとは何物か判らなかった)

写真7 写真7 拡大 (1280×960)
 御神木

写真8 写真8 拡大 (1280×960)
 社殿前から二の鳥居方を望む

御朱印
御朱印 拡大 (681×960)


御朱印
御朱印 拡大 (675×960)



出典・脚注
  1. 『神奈川県神社誌』神奈川県神社庁編 昭和57年(1982) p.187
  2. 『新編相模国風土記稿』 巻之百五 片瀬村の条 (同書は天保12年(1841)完成。鳥跡蟹行社刊(明17-21)の活字翻刻本を引用。漢字は現在当用の字体に置換へた)

改訂記録
  • 令和06.02.06 ページ内の配置変更(スマホでの閲覧に配慮)。神社庁web神社情報のリンク修正。概要欄作成と記入。

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