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第六天 (神奈川県鎌倉市山ノ内)

参拝日 令和5年2月8日(水)
作成日 令和5年12月21日(木)
よみ  だいろくてん
概要  第六天社は建長寺の四方鎮守の一つで南に鎮座してゐる。延宝二年(1674)の文書に当社の名が見える。  
所在地  鎌倉市山ノ内上町
  北緯 35度19分51.74秒 東経139度33分5.79秒
 地理院地図(ズームレベル15)
 グーグルマップ(ズームレベル14)  
地図  参拝当時の地図です。最新の地図は所在地欄のリンク先をご覧下さい。
地理院地図、東西 59km×南北 55km の範囲の地図です
・東西59km
 南北55km
印:当社位置


地理院地図、東西 1.13km×南北 0.94km の範囲の地図です
・東西 1.13 km×南北 0.94 km、
・本殿の位置に 印 を記入
HP等  ─
祭神  かつて、第六天像、持国天・増長天・広目天・多聞天の四天王像が安置されてゐた、と云ふ。
由緒  
 社頭に由緒が掲示されてゐる。次の様。
「第六天」の由来

 建長寺の四方鎮守には、中央五大尊と八幡(東)・熊野(北)・子神(西)・第六天(南)があり、第六天は上町に鎮座する。
 延宝二年(1674)の徳川光圀『鎌倉日記』に「円覚寺ヲ出テ南行シテ、第六天ノ森ヲ見ル」とあり、また、延宝六年(1678)の建長寺境内図(伝徳川光圀寄進)には「四方鎮守第六天」と記されている。
 社殿に納められた建長寺第218世真浄元苗(しんじょうげんびょう)筆の天保二年(1831)の棟札によって、宝永四年(1707)に建立した社殿の破損が著しいため、村人が願い出て再建したことが知られる。
 社殿の形式は一間社流造で、幕末社殿としては古風を尊重した造りといえよう。
 社殿内には第六天像が中心に祀られ、前列には持国天・増長天・広目天・多聞天の四天王像が安置されている。いずれも江戸時代の作で、小像ながらも彫技は丁寧で量感に満ちた佳品である。
 第六天は仏教では他化(たけ)自在天と称し、魔王の如き力を持ついわれ、神道では第六天神、すなわち、第六番目の神と認識されている。
 神奈川県内には第六天を祀る社が180社以上あり、疫病除けの神や方位神として信仰される。
 現在、建長寺の四方鎮守の中で、その位置と沿革が明らかなのは第六天だけで、建長寺史研究上の重要な資料であるばかりでなく、地域にとっても貴重な文化遺産として永く後世に伝えたい。
 また、第六天は上町の氏神でもあり、例祭は毎年七月十五日から二十二日にかけて行われる。
 平成七年六月吉日
鎌倉市教育委員会 文化財保護課  
鎌倉市 山 ノ 内 上 町 町 内 会  
加藤利雄  謹書

 『新編相模国風土記稿』(天保12年(1841))には次の様に載ってゐる(1)。( )内は割注部分。
四方中央鎮神社 五神各社ナリ(東八幡西子神南第六天北熊野中央五大尊各其処ニ鎮座ス)
雑記   最寄駅はJR横須賀線北鎌倉駅で、当社から北西へ0.9kmのところにある。 
 市役所は南微西へ1.3kmにある。

 階段途中には扉が設けられ、閉ってゐる。参拝できるのは例祭と元日のそれぞれ幾時間かに限られると云ふ(2)

写 真  (拡大写真は新しいタブ又はウインドウで開きます)
写真1 写真1 拡大 (1280×960)
 社頭
 石段の上り口の右に由緒が掲示されてゐる(内容は由緒欄参照)
 由緒の後ろの石碑は、私には読めない。背面には「大正十二年九月」の文字があるので震災に係る碑と思ふ

写真2 写真2 拡大 (1280×960)
 閉鎖されてゐる

写真3 写真3 拡大 (1280×960)
 安倍晴明碑

写真4 写真4 拡大 (1280×960)
 庚申塔と灯籠
 灯籠には天保十三年と刻まれてゐるやうに見える


出典・脚注
  1. 『新編相模国風土記稿』 巻之七十八 山之内村の条の建長寺の項にある (同書は天保12年(1841)完成。鳥跡蟹行社刊(明17-21)の活字翻刻本を引用。漢字は現在当用の字体に置換へた)
  2. 令和5年12月12日閲覧 鈴木利典氏のwebサイト鎌倉PRESS内の第六天社 

改訂記録
  • 令和06.01.19 ページ内の配置変更(スマホでの閲覧に配慮)
  •  〃    25 再修正


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