よみ
| こゆるぎじんじゃ
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所在地
| 鎌倉市腰越2-9-12 (北緯35度18分22.8秒 東経139度29分35.1秒)
ゼンリン地図
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HP
| 神奈川県神社庁 神社詳細 小動神社
Wikipedia
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祭神
| 健速須佐之男命 ( たけはやすさのおのみこと )
建御名方神 ( たけみなかたのかみ )
日本武尊 ( やまとたけるのみこと )
歳徳神 ( としがみ )
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由緒
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小動神社由緒略記
一、鎮座地 神奈川県鎌倉市腰越二丁目九番十二号
一、御祭神 須佐之男命
建御名方神
日本武尊
(配祀)歳徳神
一、御神徳 略
一、御由緒 文治年中(1185)佐々木盛綱の創建と伝えられる。吾妻鏡によれば、盛綱は寿永三年十二月(1184)
源範頼(のりより)の軍に従い平家追討の際備前国児島において霊験を得て僅か六騎にて平行盛を追伐し無事
鎌倉に凱旋した。盛綱は神恩報賽のため守護神である父祖伝来の領国、近江の八王子宮を新たに勧請すべくその地を
さがしもとめていたが、ある日江ノ島弁財天に参詣の途次、小動山に登り大いにその風光を賞せられ勧請の地と定め
られた。相模風土記によれば、八王子宮縁起をひき「文治年中佐々木盛綱当山に詣で、老松の辺りに到るに、この松
平日風なきに枝葉靡き動く、その妙音琴瑟の如し、天女遊戯の霊木なり。」とあり、この霊地を神域として八王子宮を
勧請したのが当社の起原である。
元寇三年五月(1333)新田義貞は北条氏討伐のため鎌倉攻めの際、当社に戦勝祈願をされ、後に報賽として剣一振
に黄金を添えて寄進され社殿が新たに再興された。八王子宮縁起によれば、新田義貞を中興の祖としている。
江戸時代小田原城主大久保忠真(ただとも)公(十一万三千石)は「三神社」の扁額を揮毫し奉納された。三神社
とは三柱の祭神を尊称したものである。
明治維新にあたり社名を小動神社と改称し、明治六年十二月村社に列格された。明治四十二年当所字神戸の鎮守で
あった諏訪社を合祀し、昭和十三年七月神饌幣帛料供進神社に昇格した。昭和二十八年十一月宗教法人に登録され神社
本庁に所属し現在に及んでいる。境内地六百三十坪。
後略
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境内末社は、稲荷社、金毘羅社、海神社、第六天社 がある。
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参拝日
| 平成23年5月20日(金)
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雑記
| 展望台があり、海が見へる。南西方向には江ノ島が見へる景勝地だ。富士山が見へることもあるといふ。
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