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登戸稲荷神社(神奈川県川崎市多摩区登戸)

作成日 平成30年8月25日
よみ  のぼりと いなりじんじゃ 地理院地図、東西 1.13km×南北 0.84km の範囲の地図です
(東西 1.13 km×南北 0.84 km)
参拝日  平成29年10月27日(金)
所在地  川崎市多摩区登戸2297 (北緯35度37分18.57秒 東経139度33分48.15秒)
 地図:地理院地図  いつもNAVI
HP等  神奈川県神社庁 神社詳細 登戸稲荷神社
祭神  宇賀魂大神 ( うかのみたまのおおかみ )
 牛頭天王 ( ごずてんのう )
 天照皇大神 ( あまてらすすめおおみかみ )
 大山咋神 ( おおやまくいのかみ )
 金山毘古神 ( かなやまびこのかみ )
 金山毘売神 ( かなやまびめのかみ )
 第六天 ( だいろくてん )
由緒  境内に由緒の掲示はなかった。

 社頭の掲示には次のやうにある。いくつもの神社を合祀した事が判る。
稲荷社
斎神 宇賀魂大神
    外宮豊受大神
合併社 第六天社
    神明両社
    牛頭天王
    金山大社
    松尾大明神
    弥周稲荷社

当社は嘉永六年に再建されたものである

 新編武蔵風土記稿には次のやうに載ってゐる(1)
稲荷社 (村ノ乾ノ方小名東耕地ニアリコノ所ノ鎮守ナリ本社ハ纔ナル祠ニテ拝殿三間ニ二間東向前ニ石ノ鳥居アリ勧請ノ年歴ヲ伝ヘス村内光明院持)


 神奈川県神社誌には次の様に記されてゐる(2)
由緒沿革 甲州武田の小荷駄奉行吉沢兵庫が登戸に帰農し、その邸内にあった社が稲荷社の始りと伝える。天正十八年(1580)、多摩川の洪水で社殿は流出したが、後、中村の旧屋敷の敷地を譲り受けて再建した。もと鳥居前に寛政六年刻銘の鳥居があったが嵐で倒潰し、社殿も大損害を受けたため、現在の社殿を再建した。
   ( 註 寛政六年:1794 )

 境内の北西方にはいくつもの碑がある。
 その内の一つ、御社殿改修記念碑には次のやうに刻まれてゐる(横書)。
  御社殿改修記念碑
登戸鎮守稲荷社は、すでに江戸幕府編纂の「新編武蔵風土記稿」に村社として記載されており
現在のご社殿は、嘉永六年に再建されたものであります。当初のご社殿は茅葺であり、その
為十数年毎に葺替えられておりました。昭和二十八年には瓦葺となって現在に至りました。
以来約四十星霜を経て、最近とみに雨漏等老朽著しく、昨年より修復の運びになり、委員会
を組織して、事業を推進して参りまし。
お陰をもちまして、地域各位のご理解と、関係者のご努力とによって、碑背の記載者を含む
数多の方々のご奉納と、地元太子講のご協力とを得まして、お屋根の銅板葺、併せてご社殿
内外の改修 及び防災設備の設置等がここに完工致しました。
この度の事業に貢献されました各位に深く敬意を表しますと共に、今後益々の ご神威の発
揚と、当地域の弥栄とを祈念申し上げる次第であります。
平成四年九月吉日
                           御社殿改修委員会長 伊藤 満
                           登戸稲荷社  宮司 伊藤光海
    ( 註 嘉永六年:1853 )

雑記  南武線登戸駅から西北西へ0.6kmの所にある。小田急線登戸駅・向ヶ丘遊園駅からの距離は0.5kmほど。

 明治22年登戸村他四村が合併し稲田村となり、昭和7年稲田町となり、昭和13年川崎市に編入された。登戸の地名は戦国時代にみられるといふ。小田急線向ヶ丘遊園駅の旧称は稲田登戸駅で昭和30年に改称された。平成14年に向ヶ丘遊園が閉園となり、現駅名はなじみはあるものの実態にそぐわなくなってゐる。
 多摩川沿の各地に共通してゐるが、水路が替るほどの被害にあふ一方、二ケ領用水もあり水田が多かった。
 碑の一つに、土地改良区事業の「記念碑」がある。屈曲した水路を整然と整へ、湿田を乾田に変え昭和四十一年に事業を終へた、としてゐる。
 昭和41年測地の国土地理院の地図には、馬場耕地・菅生耕地・南耕地・土淵耕地・甲耕地・乙耕地・丙耕地・丁耕地・北耕地・巳耕地・戌耕地・七耕地・辛耕地・庚耕地・八耕地・九耕地・壱耕地・弐耕地・参耕地・四耕地・拾耕地・六耕地、他の耕地名が載ってゐる。ただ、宅地化のためか昭和53年発行の地図には全く消えてしまってゐる。

 戦にかかる碑が三基ある。

   明治三十八年役記念之碑 乃木希典書
   戦没者・凱旋者
   背面に、明治三十九年八月建之 登戸䘏兵会

   戦役記念碑 陸軍大将一戸兵衛書
   大正三年四年五年七年十年役凱旋者
   背面に、昭和十九年八月建之 登戸戦没者追悼会

   忠魂碑(大東亜戦争)(漢字は当用の字体に置換へた)
忠魂
日支事変より大東亜の戦にかけて赤誠報国の信
念の下に卿等は若く尊き一命を国の為めに捧げ
られたのであるが戦は後半我が不利に終つたの
であった若し此戦が勝つたならば卿等は護国乃
人柱としてあらゆる賛辞と感謝に迎へられ物言
はぬ凱旋をされたことであらう悲しい哉其忠魂
実に九十有余柱である又茲に幾多の辛酸を嘗め
て生還した三百有余名の勇士に於ても其感懐は
蓋し同じであらうと思ふ然し諸君の殉国の至誠
が東亜諸民俗に民族的自覚心を興起せしめたと
同時に世界人類に戦争の悲惨を教へそれがやが
て平和の一礎石となるならば亦瞑して可なりと
謂ふべきである我等は卿等乃志をついて日本国
を復興すると共に世界の和合を達成せんとする
に当り我が登戸戦没者追悼会は碑を建て忠魂を
鎮め奉り永く其功績を後世に伝へんとするもの
である
    昭和二十九年七月二十日
  蘇峰コ富猪一郎題字
          伊藤六郎兵衛撰併書 印

(戦没者名 凡そ百名)

 社殿の彫刻や漆喰の壁をみると、経済的には恵まれてゐたんだなと思はされる。

写真


向拝彫刻拡大(290kB)


白壁拡大(136kB) 登戸には左官が多かったといふ。

脇障子の彫刻 拡大  

黄葉しかけた銀杏が美しかった。境内では菊花が展示されてゐた

脚注
  1. 新編武蔵風土記稿 巻之六十 登戸村の条 (本書は文政13年(1830)成立。明治17年刊の内務省地理局による翻刻本を引用、漢字は当用の字体に置換へた)
  2. 『神奈川県神社誌』神奈川県神社庁編 昭和57年(1982)  p.130 稲荷社


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