神社訪問記HP神奈川県川崎市

丸子山王日枝神社(神奈川県川崎市中原区上丸子山王町)

参拝日 平成29年11月1日(水)
作成日 平成30年9月1日(土)
追記日 令和6年4月13日(土)
よみ  まるこさんのうひえじんじゃ  
所在地  地図:地理院地図  いつもNAVI  
地 図  参拝当時の地図です。 (最新の地図は所在地欄のリンク先をご覧下さい。)
地理院地図、東西 1.13km×南北 0.94km の範囲の地図です
・東西 1.13 km × 南北 0.94 km、
印:本殿の位置
HP等  神奈川県神社庁 神社情報 日枝神社
 当社 HP
祭 神  大己貴神 ( おおなむちのかみ )
 家都御子神 ( けつみこのかみ )
 建御名方神 ( たけみなかたのかみ )
 応神天皇 ( おうじんてんのう )
 天照大御神 ( あまてらすおおみかみ )
 菅原道真 ( すがわらみちざね )
 日本武尊 ( やまとたけるのみこと )
由 緒  社頭の掲示には次のやうに墨書されてゐる。
日枝神社御由来

社の言伝えによると第五十代桓武天皇の御嫡子貞桓親王の次男恵恒僧都は不思議な子細があって山中に入られ近江の国坂本一本松のあたりに住まわれた。この人が山本平内左衛門尉恒重である。 弟の次郎左衛門尉恒明と共に能く社に仕え山王権現(日吉大社西本宮)の御分霊を奉じて美濃国赤坂へ来たが更に尾張の国熱田神宮に一年間合わせ祀られその後次第に関東に下られ武蔵の国稲毛庄河崎村守山にお宮をつくりお祀りしたが、神威にかなわず四方八方へ光を放った。庄内の道俗一同が驚いて馳せ集り直ちに丸子にお送りしてお宮をつくりお祀りしたのが現在の日枝神社である。
時に大同四年(西暦809年)六月十四日であった。
御鎮座以来御供田として上丸子下丸子今井村は当社権現の社領と定められた。その後治承二年(西暦1178年)五月上旬、小松内大臣平重森公は武里蔵人大夫という侍を関東につかわして山王権現の社殿を再建され九寸五分の御剱を奉納された。
徳川三代将軍家光の寛永十九年(西暦1642年)八月十七日より徳川幕府末期までは御朱印弐拾石を賜った。明治二年(西暦1869年)七月四日山王権現を日枝神社と改称した。
古くより伝わる特殊神事の歩射祭(おびしゃ祭)は一月七日古式に基ずき厳粛に斉行されている。
八月の大祭には一体の大神輿と十数作の各町内神輿及び山車の渡御で賑わう。
現在の御本殿は元文五年(西暦1740年 徳川吉宗時代)の建築で弊殿及び拝殿は関東大震災で崩壊し昭和三年に再建された。
尚当社所蔵の古文書(後北条氏の虎の印判状二通 徳川氏奉行人連署書一通)と御本殿一棟が川崎市の文化財に指定され、また平重盛公義を○○○○江戸中期御造営と伝えられる大神輿も社宝として大切に保存されている。
     第三十六代後裔
          宮司 山本五郎
          奉納 山本文吉

 新編武蔵風土記稿には次のやうに載ってゐる(1)。( )内は割注部分。
山王社 (村ノ東ノ方ニアリ御朱印二十石本社二間ニ三間弊殿二間ニ二間半拝殿ハ二軒半四方前ニ鳥居ヲ立ツ鎮坐ノ初ハ詳カナラス御朱印ヲ賜ヒシハ寛永十九年八月十七日ナリ当社ノ縁起アレト後人附会セシモノトミエテ取ルヘキニトナシコトニ承治庚申ナリトアラヌ年号ヲシルシヌレハ考フルニヨシナシモシ承治は治承の誤リニテ干支ハ更ニ誤リ載セシニヤ是ノミニアラス其載スル所何レモウケカヒ難キコトヽモナレハコヽニノセス) 宝物 剱一振(長サ纔ニ九寸五分ナリ銘ハナシ) 鎗一筋(銘日向守正氏ノ五字ヲエリタリコレラハ小松内大臣重盛ノ納メタリトイヘトモタシカナルコトヲシラス)

  古文書 二通
上丸子郷四十二貫五百六十六文此内三貫文両名主ニ永代御免残而卅九貫五百六十六文可致御蔵納旨被仰出者也依如件
  北条氏虎印アリ
   丁亥八月十八日      今阿弥 承之
              丸子郷名主百姓中
上丸子之内近年川成ニ付而世田谷領□目之郷問答候依之去年己丑九月興津加賀田中加賀安藤代福田三人之撿使を以被為見候所ニ於上丸子者無紛由申上候間急度作職申付令授之御年貢可指上者也仍如件
  北条氏虎印アリ
   庚寅三月十六日      今阿弥 奉之
              中村五郎兵衛殿
              上丸子百姓中

 駒形社(本社ニ向テ左ニアリ九尺四方)
 稲荷社(本社ニ向テ右ニアリ一間四方)
 釈迦堂(境内ニアリ是ハ村内大楽院ノ持)
 神主山本丹波(吉田家ノ配下ナリイツレノ頃ヨリ当社ノ神主トナリシヤ家系ヲ伝ヘサレハ詳ナラス按ニ社殿ニモ神宮寺ノ名ハ見エ神主ノコトハ記サス且社地ノ釈迦堂ハ村内大楽院ノ持ナレハ昔ハ当社モ大楽院ノ持ニテ山本氏ノ神主トナリシハ遙ニ後ノコトナリト土人イヘリ今ハ大楽院ニテハ当社ノコトニハアツカラス)
熊野社(小名古川ニアリ小祠西向例祭八月十五日村内大楽院持)
熊野社(南方ニアリ大楽院ノ持)
諏訪社(東北ノ隅ニアリ西蔵院ノ持)
八幡社(村ノ中央ニアリ社二間ニ二間半西向前ニ鳥居アリ例祭ハ三年ニ一度アリ勧請ノ初ヲシラス大楽院ノ持)
伊勢宮(村ノ北ニアリ纔ナル社祭礼八月十五日是モ大楽院ノ持)
天満宮(村東多摩川ノ辺ニアリ本社三尺四方覆屋二間四方拝殿二間ニ二間半南向ナリ前ニ石ノ鳥居アリ例祭九月二十五日西蔵院ノ持) 
 末社子権現社(本社ノ後ニアリ石ニテ造レルワツカナル祠ナリ)
杉山社(村ノ西北ノ隅ニアリ小祠勧請ノ初ヲ詳ニセス是モ西蔵院ノ持)

 (註 纔:わずか 、 当社HPに「大正七年には村内の八幡社・天神社・大六天社・熊野社・神明社・諏訪社・杉山社が合祀された」とある。風土記稿にある熊野社以下の社と一致するのかは未確認)
雑 記  南武線武蔵小杉駅から東北東へ0.8kmの所にある。東には多摩川が南流してゐる。

 野村文左衛門が架けた八百八橋の一つが、当社から北西へ200mの土中から発掘され、境内にある。訪れた時には、八百八橋の事は知らなかったので、あるのには気づいてゐなかった。写真には写ってゐたが、判ってゐれば石に彫られた文字にも気を配っただらうに。
 (八百八橋は、小杉御殿町の御蔵稲荷神社(10月27日参拝)でも触れた)

写 真  (拡大写真は新しいタブ又はウインドウで開きます)

写真1  社頭 社号標は「日枝神社」、紀元二千六百年記念・村井八郎川崎市長謹書


写真2



写真3


写真5


写真4  境内社 稲荷神社・大鷲神社


写真6  昭和九年に伐採された大杉(御神木)、樹齢700年余・高さ30m・周囲8m


写真7  旧社号標「村社日枝神社」、その手前に発掘された八百八橋の一つがある


御朱印


出典・脚注
  1. 『新編武蔵風土記稿』 巻之六十四 上丸子村の条 (本書は文政13年(1830)成立。明治17年刊の内務省地理局による翻刻本を引用、漢字は当用の字体に置換へた)

改訂記録
  • 令和06.04.13 ページ内の配置変更(スマホでの閲覧に配慮)。 写真に番号を附した。 神社庁web神社情報のリンク修正。

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