神社訪問記HP神奈川県川崎市

下平間天満天神社(神奈川県川崎市幸区下平間)

参拝日 平成29年11月1日(水)
作成日 平成30年9月20日(木)
追記日 令和6年4月12日(金)
よみ  てんまんてんじんしゃ  
所在地  川崎市幸区下平間51 (北緯35度33分8.20秒 東経139度40分42.81秒)
 地図:地理院地図  いつもNAVI  
地 図  参拝当時の地図です。 (最新の地図は所在地欄のリンク先をご覧下さい。)
地理院地図、東西 1.13km×南北 0.94km の範囲の地図です
・東西 1.13 km × 南北 0.94 km、
印:本殿の位置
HP等  神奈川県神社庁 神社情報 天満天神社
祭 神  菅原道真 ( すがわらみちざね )
由 緒  境内に石碑がある。
下平間天満天神社由来
鎮座地 川崎市幸区下平間五十一番地
御祭神 贈 太政大臣 正一位 菅原道真 公
例祭日 九月二十五日(現在は二十五日に近い土・日曜日)
社殿  権現造り銅板葺 十二坪
境内地 三百十五坪

 御祭神の菅原道真公(845〜903年)は、平安時代初期の学者・政治家で世に菅公、菅丞相ともいう。 幼少より、歌や詩を作ることに秀で十一歳のとき、「月夜見梅花」の詩を作り父を始め周囲の人々を驚かせたほどでした。
 長じて朝廷に仕えてからも、学者・政治家として、すぐれた業績を残し醍醐天皇の時ついに右大臣兼右近衛大将の地位まで上りましたが、左大臣  藤原時平等のさんげんによって太宰権帥に左遷され、任地の太宰府において薨去されました。
 のちに、その優秀な能力と功績により学問の神として祀られ、広く人々に知られ篤い信仰を集めている。
 当社の由来については、創立年代ハ不詳であるが「新編武蔵風土記稿」に、「当社は村の北方にあり、前に鳥居が立ち、社前に拝殿あり、神体は木の坐像にて長さ一尺二寸余、社辺に松樹数株あり、小倉村無量院の別当なり」と記されている。また、下平間の旧家に伝わる古文書(弘化三年記)によると、「武州多摩郡谷保村天神社伝記に、延喜三年二月二十五日父君菅原道真公筑紫にて薨去(五十九歳)なされたと聞き三男道武公悲嘆のあまり、父君の尊像を自ら模刻し孝道の誠を尽された。その後  道武公その尊像を供奉し、谷保村に来たり一社を草創そこれを安置した。
 こののち道武公当地縣主  上平貞盛の女を娶り一子を得、その子を菅原道英と号す
 それより六世の孫津戸三郎為守、菅原道真公の尊像を供奉し、当地(下平間)に来往し一社を建立する。」と記されており当初は一氏族の、氏神としての正確が強かったようでありますが、年月が経つにつれ、下平間の鎮守として祀られるようになり村民の信仰を集め現在に至っている。
 また、江戸時代の再建と思われる社殿は第二次世界大戦の末期、昭和二十年四月十五日の川崎大空襲によりことごとく焼失し、かっての面影は無い。 しかし、昭和四十年九月氏子の寄進により、現在の社殿が再建された。
東風ふかばにほひおこせよ梅の花 主なしとて春を忘るな
(註 歌は変体仮名を用いて表記されてゐるが、現用字体に置換へた。「春な忘れそ」が一般的。)

 新編武蔵風土記稿には次のやうに載ってゐる(1)。( )内は割注部分。
天満宮 (村ノ北ノ方ニアリ前ニ鳥居ヲタツ社前ニ拝殿アリ神体木ノ坐像ニテ長一尺二寸余社辺ニ松樹数株アリ例祭九月廿五日小倉村無量院持)
雑 記  南武線鹿島田駅から東へ0.3kmの所にある。

 鳥居には「大正十二年十二月吉日」、社号標は「昭和四拾年九月吉日 下平間協進会建之」と刻まれてゐる。

写 真  (拡大写真は新しいタブ又はウインドウで開きます)

写真1


写真2


写真3


出典・脚注
  1. 『新編武蔵風土記稿』巻之七十二 下平間村の条 (同書は文政13年(1830)成立。明治17年刊の内務省地理局による翻刻本を引用、漢字は当用の字体に置換へた)

改訂記録
  • 令和06.04.12 ページ内の配置変更(スマホでの閲覧に配慮)。 写真に番号を附した。 神社庁web神社情報のリンク修正。

文頭へ移動  ホーム(神社訪問記)
inserted by FC2 system