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椎木稲荷神社(神奈川県川崎市幸区小倉)

作成日 平成30年10月7日
よみ  しいのきいなりじんじゃ 地理院地図、東西 1.13km×南北 0.84km の範囲の地図です
(東西 1.13 km×南北 0.84 km)
参拝日  平成29年11月7日(火)
所在地  川崎市幸区小倉5-3-47 (北緯35度32分19.45秒 東経139度39分57.26秒)
 地図:地理院地図  いつもNAVI
HP等  神奈川県神社庁 神社詳細 椎木稲荷神社
祭神   宇迦之御魂大神 ( うかのみたまのおおかみ )
由緒  社殿の中に、由緒略記が掲げてある。一部読取れなかったが転記する。
椎木稲荷神社由緒略記

 当社の鎮座地は旧武蔵国橘樹群稲毛領小倉村に属す。当地の沿革は明らかならざれども鎌倉時代に既に豪族の居住ありしものゝ如く徳川幕府の治下にはその直轄下に属し、正保元年代官伊奈忠治当村を検地せり。この頃、村域・年貢負担体系全く確立し、近世村落小倉村の成立をみしならん。今より三百五十二年以前のことにかゝる。
 当社の根本氏子を斎木と称す。その家伝に当社の勧請は元和年間にしてその由緒書を伝えしが今次大東亜戦争の空襲によりて焼失し、その拠証を失えりと。されども当社に奉安せる霊代の箱書に「本宮本官羽倉摂津守」と墨書されたるをみれば山城国紀伊郡稲荷山の稲荷社即ち伏見稲荷大社より勧請せられしことは明白なり。
 山城国稲荷社の祠官は○・荷田の二姓相伝す。しかして慶安元年六月廿五日より明暦三年十二月まで御殿預職に在りし者に荷田姓の摂津守羽倉信吉あり。信吉はまた院に出仕し御殿預職を甥信詮に譲りたる後、寛文三年二月十六日従五位下摂津守に叙任され、後水尾院の上北面に列したり。霊代箱書に、本宮本官羽倉摂津守」と署名せる所以なるべし。よりて当社の現霊代の勧請は寛文三年二月十六日より信吉の没年貞享四年七月四日の間にありと推測するを最も妥当とす。今より三百三十三年ないし三百九年以前徳川四代将軍家綱より五代綱吉の初政に至る間にして幕政の最も安定せる時代なり。
 昭和四十年代に至り、斉木をはじめ古氏子和田氏等諸氏、由緒あるこの古刹の斎木利重邸内の○祠として○らに埋れんことを畏れ、同四十七年鉄筋コンクリート造りの社殿を造立し、その恒久的維持の措置を南加瀬鎮守天照皇大神、小倉鎮守杉山大神、同小倉神社宮司岩澤政一に委託し、斎木利重は境内地を無償提供し、斎木栄吉は参道に接する所有地を四米道路に造成す。よりて宮司は神奈川県神社庁、神社本庁、関東財務局の間に奔走し、同四十九年、神社本庁包括宗教法人椎木稲荷神社の設立を実現せり。しかして設立に際し、伏見稲荷大社守屋光春宮司に神額の揮毫を請い、昭和期の神社設立に際して同大社の了解ありしことの証左となし、以て勧請創建の古例と照応せしめたり。
  初代宮司 岩澤政一
  二代宮司 岩澤具治
  責任役員 斎木利重 和田作造 斎木栄吉 土倉辰三 佐野秋春
  古氏子  中略
 平成七年○○乙亥二月吉日誌
 神奈川県神社庁の神社詳細の御由緒には次のやうにある。
当社は鎌倉時代、一族が当地に土着した際、守護神として奉斎したのに始まり、椎木稲荷と称した。徳川時代慶安年間、伏見稲荷大社より御霊代を勧請して、斎木・土倉・加藤・青山・佐野・和田・小峯の七氏によって祭祀が執り行われて、正徳二年に社殿を再造営、更に天保十年に覆殿を再造営し、昭和四十七年二月八日に現在の社殿が造営された。
雑記  南武線矢向駅の西1.3km、東海道本線支線品鶴線新川崎駅の南南西1.4kmの所にある。
 社頭への道は狭く、地図を片手にたどり着いた。

写真

鳥居は平成二十八年奉納

狛犬は昭和五十三年奉納


伏見稲荷大社宮司守屋光春謹書とある


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