由 緒
社前にある掲示には次のやうにある。
日の出 厳島神社の由来
此の地に建つ神社は日の出厳島神社と称し祭神は
市杵嶋姫命を祭ってあります、又古くから出来野の弁天様とも呼ばれ地域の氏神様として崇められ親しまれてきました。初代のお社「やしろ」は総槇「マキ」造りで茅葺屋根(写真)の昔ながらの造りでしたが大正十二年九月の関東大地震で社が倒壊し現在の社殿は昭和四年に村人の力で再建されました。古くは江戸時代、1808年十二月太田南畝(蜀山人)とも云う人が徳川幕府の命で多摩川の河川を調査した時の日記の中に「羽田から六稲荷の渡しを渡り江川の堀に沿って出来野弁天の前を過ぎる」と書残されております。そして昭和四十年末頃まで境内中央に今でも残る銀杏の木の他に数本の巨木が天高く聳え子供達の良い遊び場ともなっていました。又当時は神社正面の鳥居の前はすぐ海に繋ぐ出来野川の船着場で毎日海での漁に海苔採りに、船を操る人達で賑やっていました。そして遠く離れた海でその日の漁が終わり我が家えの帰路に急ぐ人達にとって遙か遠く空高く聳えて見える厳島神社の大銀杏の木が海で働く人達の心の安らぎとして帰路に着く道しるべに成ったことです。
(写真略)
大正十二年九月の関東大震災で倒壊する前の厳島神社、社殿左に斜めに太い松の木が写っている 生前の當麻喜三郎氏は「俺の子供の頃は毎日のように此の松に登って遊んだものだ」と語られていた。
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| 雑 記
| 京浜急行電鉄大師線小島新田駅から南西へ0.6kmの所にある。
最下部の写真は、塩で溶けた庚申塔といふ(1)。この地にも塩田があった名残のやうだ。
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