神社訪問記HP神奈川県川崎市

汐留稲荷神社(神奈川県川崎市川崎区池上新町)

参拝日 平成29年11月10日(金)
作成日 平成30年10月20日(土)
追記日 令和6年4月10日(水)
よみ  しおどめいなりじんじゃ  
所在地  川崎市川崎区池上新町2-24-21 (北緯35度31分29.64秒 東経139度43分54.80秒)
 地図:地理院地図  いつもNAVI  
地 図  参拝当時の地図です。 (最新の地図は所在地欄のリンク先をご覧下さい。)
地理院地図、東西 1.13km×南北 0.94km の範囲の地図です
・東西 1.13 km × 南北 0.94 km、
印:本殿の位置
HP等  神奈川県神社庁 神社情報 汐留稲荷神社
祭 神  豊宇気姫命 ( とようけひめのみこと )
 大物主大神 ( おおものぬしのおおかみ )
 崇徳天皇 ( すとくてんのう )
 池上太郎佐エ門幸豊 ( いけがみたろうざえもんゆきとよ )
由 緒  神奈川県神社誌には次のやうにある(1)
由緒沿革  宝暦十一年(1761)の創立である。由緒は詳かでないが、池上新田一村の守護神として勧請せられ明治六年十二月村社に列した。昭和二十年四月十五日空襲に依り焼失、昭和二十七年七月二十七日社殿を再建した。

 境内には、石碑「 川崎生産文化の先覚者 池上幸豊翁之碑 川崎市長金刺不二太郎謹書」(市長在任は昭和21〜46年)があり、また、碑の案内板があり、次のやうに記されてゐる。
池上幸豊翁之碑
 池上太郎左衛門幸豊(いけがみたろうざえもんゆきとよ)は、江戸時代後期に活躍した人で、享保三年(1718)に橘樹群大師河原村(現・川崎区)で生れました。
 池上氏は日蓮宗の本山の一つである池上本門寺を寄進した(*)信心の厚い家系で、幸豊の曾祖父である幸広(ゆきひろ)の代に大師河原に移り住むようになりました。
 幸豊は十二歳で父親を亡くし、その跡を継いで大師河原村の名主になりました。当時の大師河原は田畑の少ない場所で、幸豊は、埋め立てによる新田開発を何度も幕府に願い出ましたが、なかなか許可されず、七年の歳月を経た、宝暦二年(1752)になって、やつと認められました。埋め立ては、まず砂の集りやすい場所に丸太を打ち込み、笹を立てて砂を集め、そこに葦(イネ科の植物)を植えて砂が流れないようにし、それを徐々に広げていく「笹出し」と呼ばれる方法によつて進められました。こうして六年もの歳月を費やして十四町五反余(約十四.五ヘクタール)の新田を開発し、宝暦十二年(1762)には、「池上新田」と名付けられた一つの村になりました。  幸豊は新田開発のほかにも、寛政十年(1798)に八十八歳で天寿を全うするまで、製塩・芒硝(火薬の原料)・ナシやブドウの栽培・砂糖の製造など、多くの産業を興し、川崎が発展していく基礎を築き上げました。
 平成五年三月
川崎市教育委員会
 註 幸豊の通称は太郎左衛門。二十四代前の池上宗仲は、日蓮入滅後、館やその周辺の土地を寺に寄進し寺領とした。この寄進地が池上本門寺の基礎となった。

 新編武蔵風土記稿の池上新田の条には、「池上新田ハ宝暦十二年里正太郎左衛門トイヘルモノヽ願ニヨリテ開発シ伊奈半左衛門忠宥検地シテ新田トナレリ 太郎左衛門カ氏ヲ池上と云ヘルヲ以テ村名トナセリ」とある(2)。また、大師河原の条には、砂糖の栽培と氷砂糖の製造について詳しく載ってゐる(2)
雑 記  京浜急行電鉄大師線川崎大師駅から南南東へ1.3kmのところにある。
 かつては海岸電気軌道(大師駅─総持寺。のち、鶴見臨港鉄道軌道線)の池上新田駅が南東200m程の所にあった(大正14年開業、昭和12年廃止)。
 池上新田は、明治8年に大師河原村と合併して大師河原村、大師村をへて大正13年に川崎町・御幸町と合併し川崎市となってゐる。

写 真  (拡大写真は新しいタブ又はウインドウで開きます)

写真1  池上幸豊翁之碑と社号標、鳥居

写真2


写真3  狛犬(狐)は昭和三十三年の奉納


出典・脚注
  1. 『神奈川県神社誌』 神奈川県神社庁編 昭和57年(1982) p.105 汐留稲荷神社
  2. 『新編武蔵風土記稿』 巻之七十一 池上新田の条、および大師河原村の条 (同書は文政13年(1830)成立。明治17年刊の内務省地理局による翻刻本を引用、漢字は当用の字体に置換へた)

改訂記録
  • 令和06.04.10 ページ内の配置変更(スマホでの閲覧に配慮)。 写真に番号を附した。 神社庁web神社情報のリンク修正。

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