神社訪問記HP神奈川県川崎市

大島八幡神社(神奈川県川崎市川崎区大島)

参拝日 平成29年11月10日(金)
作成日 平成30年10月20日(土)
追記日 令和6年4月10日(水)
よみ  はちまんじんじゃ  
所在地  川崎市川崎区大島3-4-8
   (北緯35度31分15.35秒 東経139度43分0.24秒)
 地図:地理院地図  いつもNAVI  
地 図  参拝当時の地図です。 (最新の地図は所在地欄のリンク先をご覧下さい。)
地理院地図、東西 1.13km×南北 0.94km の範囲の地図です
・東西 1.13 km × 南北 0.94 km、
印:本殿の位置
HP等  神奈川県神社庁 神社情報 八幡神社(大島八幡宮)
祭 神  誉田別命 ( ほむだわけのみこと )
 伊弉諾命 ( いざなぎのみこと )
 伊弉冉命 ( いざなみのみこと )
由 緒  境内の掲示には次のやうにある。
大島八幡神社
一.御祭神 主神 誉田別命(応神天皇 八幡神)
      配神 伊弉諾命 伊弉冉命
一.例祭  八月第一土曜日、日曜日
一.宮司  市川緋佐麿(稲毛神社宮司の兼務)
一.御由緒
 当神社は江戸時代に別当をつとめていた真観寺が火災に遭い、古い記録の一切が失われたため、その由来は審らかではありません。
往昔、源義家が八幡太郎を名乗つて前九年、後三年の両大役(1051〜1087年)に勝利を得、関東に一大勢力築いて以来、源氏一族は八幡神を氏神としてその御神徳を慕い武運長久、家門隆盛を祈つてそれぞれの領域に八幡社を建立致しました。当八幡神社も、この地域の住民たちが両大役の折源氏方の将兵の宿泊に民家を提供したり、兵糧を提出したりして協力したことに対し、源氏一族が感謝のしるしとして建立したものと伝えられています。
その後今日まで、当神社は、氏子の崇敬極めて篤く、村民和楽の中心として栄えてきました。特にしばしば匿名の篤志者による多額の奉納があり、その霊験のあらたかさは、今でも遠く氏子外の人々にも知れわたつております。また、大島村は江戸時代までは河崎山王社(現在稲毛神社)の氏子でもあり、現在も同神社に伝わる格式高い重儀「宮座式」の重要な所役を担つています。この一事をみても当地域が古くから川崎郷の中で枢要な役割をはたしていたことが推察されます。
 昭和二十年四月の戦禍で本殿はじめ全ての建造物を焼失しましたが、その復興も極めて順調に行われました。そして現在は大島地域の鎮守として多くの参拝者をあつめ、例祭をはじめとする祭事行事も氏子の崇拝者の連帯協力により逐年盛大に執り行われていることは喜ばしい限りです。また、境内には「大島新田記念碑」(文化七年1810年建立)日露戦争凱旋記念狛犬(明治三十九年建立)「伝桃記念碑」(大正四年建立)などがあり、郷土の先人たちの成し遂げた偉業を今に伝えています。
一.境内社
  権現社
   御祭神 天照皇大神 春日大明神 八幡大善神 白滝大善神 白竹日大大善神
  稲荷社
   御祭神 稲倉魂神
以上
奉納 坂本守司

 新編武蔵風土記稿には次のやうに載ってゐる(1)。( )内は割注部分。
八幡社 (村の中央ニアリ覆屋三間四方内ニ小祠ヲ置拝殿三間ニ一間余社前に石鳥居ヲ建此村ノ鎮守ニシテ村内真観寺持ナリ)
 末社稲荷弁財天天満宮合社 (本社ニ向テ左ニアリ)
雑 記  東海道線川崎駅から南東ないし東南東へ2.0kmの所にある。南武線(浜川崎支線)小田栄駅からは北東ないし北北東へ1.3kmと川崎駅よりも近いが、運転本数が少ない。川崎駅からバスが便利だ。

 明治三九年に奉納された凱旋記念の狛犬は台座に旭日旗と錨が描かれ獅子は砲弾を持ってゐる。

 「大島新田開拓の碑」がある。文化七年の年記があるが、文体・用語・用字は現代のもので碑もあたらしいので、再建されたものと思はれる。(碑背の確認をし忘れた)

 「温故知新」と題した石碑がある。碑文を読むと前記の由緒にある「伝桃記念碑」と思はれる。読取れなかった部分もあるが、以下に転記した。(正字体は当用の字体に、変体仮名は現在の仮名に置換えた)
温故知新
富嶽の高さ大洋の深き俄然成立するものにあらす必す○○の砂消さの流を積て而して○始 めて然り嗚呼小を積て大を成すの功見るへし維人に於て亦然り柳本村は京浜の間に介在し 古来梨樹の栽培盛なりしか明治の初年洋桃の輸入せらるるや競ふて栽培を試みしも皆成功 せさりき同廿九年吉澤寅之助氏三十有余種を蒐め栽培せられしより二三熱心家も有望種の 撰択に従事せられたり適吉澤氏一品種を発見したるを以て先考伝十郎の一字を冠し之を伝 桃と命名せられる然り而して此桃たるや吉澤氏苦心の賜○○○其光沢其風味共に佳良且地 に適し栽培方容易なり従て栽培者激増し市場に於ける名声嘖々○○て本村亦桃本場と目せ らるゝに至れり大正三年石原知県畏くも 皇太子殿下へ献納せられしに引続き嘉納の光栄 を得たり是常に本村の光栄たるのみならす亦以て日本園芸界を飾るの功績を有し全国に渉 り桃の良種は伝桃の支配する所とならんとす今や果樹業の発達は則ち桃の良種に俟たさる 可らす良果の算出は則ち病虫害駆除予防に基す大正二年時勢の進運に鑑み果物同業組合を 組織し栽培上の改良病虫害駆除予防の励行輸送方法の改善等を図り馬車輸送を開始し○る に生産箱数拾有余万を算するに至れり蓋し此盛況を得しに畢竟組合員の一致協力並に輸送 法の宜しきを得たるに因ると雖も就中伝桃の優良種なるに帰せさる可らす茲に於て此光輝 ある桃の発見二十年組合設置三年を機とし神田市場に於ける指定問屋諸氏の賛せらる○の り以て永く本村の歴史として之を万世に伝へんとす懐ふに時や曠古の 大典に当り何等か 之を記念し奉るへき好機なるに於ておや因て植桃以来の沿革を録す
大正四年十一月  三等郵便局長安藤安撰○書
内藤慶雲刻

 この地が果物の里だったことに因んだやうで、境内に禅寺丸柿が植えられ、健保二年(1212)発見との由来とここに植えられた経緯が掲示されてゐる。
 大島村は明治22年に他村と合併して川崎町となり、大正13年に大師町、御幸村と合併して川崎市となってゐる。

 境内の設置物には簡単な説明が掲示され、訪れた者が親しみを感じられるやうに心配りがされてゐる。

 参考 かわさき区の宝物シート 29-6 伝十郎桃(でんじゅうろうもも)

写 真  (拡大写真は新しいタブ又はウインドウで開きます)

写真1


写真2


写真3


写真4  境内社 権現社


写真5  手水舎(鉢は嘉永二年奉納)、八幡橋橋桁(年代不詳、二ヶ領用水が神社前を流れてゐた頃の八幡橋に使はれてゐた)


出典・脚注
  1. 『新編武蔵風土記稿』 巻之七十一 大島村の条 (同書は文政13年(1830)成立。明治17年刊の内務省地理局による翻刻本を引用、漢字は当用の字体に置換へた)

改訂記録
  • 令和06.04.10 ページ内の配置変更(スマホでの閲覧に配慮)。 写真に番号を附した。 神社庁web神社情報のリンク修正。

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