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新田神社(神奈川県川崎市川崎区渡田)

作成日 平成30年10月20日
よみ  にったじんじゃ 地理院地図、東西 1.13km×南北 0.84km の範囲の地図です
(東西 1.13 km×南北 0.84 km)
参拝日  平成29年11月10日(金)
所在地  川崎市川崎区渡田(わたりだ)2-14-8 (北緯35度31分14.98秒 東経139度42分22.91秒)
 地図:地理院地図  いつもNAVI
HP等  神奈川県神社庁 神社詳細 新田神社  Wikipedia:新田神社(川崎市)
祭神  新田義貞 ( にったよしさだ )
 天照大神 ( あまてらすおおみかみ )
 大国主神 ( おおくにぬしのかみ )
 厳島媛神 ( いつくしまひめのかみ )
由緒  境内にある掲示には次のやうに記されてゐた。
新田神社

御祭神 主祭神 新田義貞公
    配神  天照大御神 市杵島姫命
        宇迦之御魂神
        亘新左衛門尉早勝(わたりしんざえもんのじょうはやかつ)
御神徳 家門隆盛 武道上達 心身健康
御例祭 八月第一土・日曜日(元七月二日、後10月10日)

御由緒沿革
 社伝によれば、新田義貞公が延元三年(1338年)七月二日、越前国藤島(現在福井市内)で討死の際、その臣亘新左衛門尉早勝が公の差添の名剣と七ツ入子の名鏡及び錦の陣羽織の三種の品を得てこの地に携えて帰り、ひたすら冥福を祈って供養していたところ、里人らも公の徳を追慕し、その三種の形見を早勝に乞い早勝と共に永和元年(1375年)七月二日清浄の地を求め孤松の下に埋納し、廟を営んで新田大明神と崇め、この地の鎮守とし里人武人らの信仰が厚く祭田の寄進もあったと伝えられております。
 また俚伝によれば、正月元旦と七月二日の晩にはこの地に軍馬が嘶く声がすることがあり、これは河北矢口村(現東京都大田区内)に鎮座されている公の二子義興公が父霊のもとに参るためと言われておりました。
 明治六年村社に列格、後幣帛料供進神社に指定。戦禍により建物悉く焼失したが昭和31年社務所、同38年社殿、同43年神楽殿の再建を遂げ、平成三年社務所を改築した。

 境内社についてもそれぞれの社殿近くに由緒が掲示されてゐる。転記する。

 姥ヶ森弁天社
姥ヶ森弁財天
御祭神 市杵島姫命
御神徳 学問・芸術上達 福徳円満

御由緒御沿革
 昔「姥ヶ森」あるいは「森山」と呼ばれた地(現在鋼管通三丁目)に鎮座しておりましたが明治末年合祀令により新田神社に遷されました。
 その森には新田義貞公寄進の馬場と御手洗の池があったという伝えがあります。
 当弁天社と稲毛神社とは極めて縁が深く古より同神社例祭の大神輿巡幸の御旅所で現在も毎年八月三日御巡幸になり、その際御手洗の池の跡と伝える井戸から汲んだ御神水を大神輿に降り注ぎ神霊を鎮めると共に、当神前で神奈川県の文化財に指定されている宮座式が古式床しく行われます。

 神明社
神明社
御祭神 天照大御神

御由緒御沿革
 平成八年六月 伊勢の皇大神宮御鎮座二千年の佳年に当たり、神明造りの本殿とその覆屋を建立して勧請。
 新編武蔵風土記稿の渡田村の項には「大神宮、村の西にあり、本社東向きにしてわずかの宮造りなり、覆屋二間に一間半前に鳥居立、例祭六月16日」とあって現在の渡田新町二丁目に天照大御神をお祀りするお宮がありましたが明治末年新田神社に合祀されました。
 江戸時代には伊勢信仰が盛んで渡田村にも伊勢講があって例年村民数名が村民を代表して「お伊勢参り」をする慣わしがありました。

 稲荷社
稲荷大明神
御祭神 宇迦之御魂神
御神徳 五穀豊穣 商売繁盛

御由来御沿革
 石造の稲荷宮は、飢饉が続いた江戸時代末期、当時農村地帯であった渡田村の村民が五穀豊穣を祈願して勧請。
 当地域は稲荷信仰が盛んで、大正末期まで稲荷講があって近隣互助と当稲荷宮の維持にあたりました。
 初午には祠を筵で囲み、その中で子供達がお供物をいただきながらおこもりしてのお祭りが行われ、子供達にとって楽しい年中行事の一つでありました。
 稲荷宮の台座には、渡田村村民48名の氏名が刻まれております。
 木造の稲荷宮は、氏子会社の敷地内に祀られていましたが、昭和30年代の移転の際ここに遷されました。

亘新左衛門尉早勝の墓(御霊社)

亘新左衛門尉早勝の墓

御由緒御沿革
 言伝えによれば、当社創設に深くかかわる新田義貞公の臣亘新左衛門尉早勝が領地であった渡田村で永和三年(1377年)七月二日没した後、里人がその旧居跡(現在渡田三丁目)に祠(御霊社)を建立し、傍らに墓石を建てその霊を鎮めていたが明治末年当社境内に移されました。
 亘新左衛門尉早勝は、栗生左衛門尉忠良、畑六郎左衛門尉時能、篠塚伊賀守重広と共に新田義貞公の勇猛な家臣四天王の一人でした。渡田、小田地区には四天王の末えいと伝える家系があり、また当地区の急速な開発前には四天王縁りの塚もありました。
 また昔は渡田村を亘田と書いたという伝えもあります。
雑記  南武線(浜川崎支線)川崎新町駅から東北東へ0.6km、東海道線川崎駅から南南東へ1.4kmのところにある。

 境内には、上記境内社の他、新田義貞公像(慶寺丹長 四代目 昭和三十七年七月作)、があった。
 亘新左衛門尉早勝の墓前には花が生けられ、大切にされてゐる様子が窺へた。

写真



御本殿

境内社 姥ヶ森弁天社

境内社 神明社 (ガラスの窓が広く、御本殿が拝見できる)

境内社 稲荷神社

向って左から、新田義貞公像、亘新左衛門尉早勝の墓(低木のかげ)、姥ヶ森弁天社、神明社、本社、稲荷社(石製祠、木製祠)


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