神社訪問記HP神奈川県川崎市

杉山大神(神奈川県川崎市幸区小倉)

参拝日 平成29年11月10日(金)
作成日 平成30年10月20日(土)
追記日 令和6年4月10日(水)
よみ  すぎやまおおかみ / すぎやまだいじん  
所在地  川崎市幸区小倉1-4-6 (北緯35度32分43.61秒 東経139度40分8.70秒)
 地図:地理院地図  いつもNAVI  
地 図  参拝当時の地図です。 (最新の地図は所在地欄のリンク先をご覧下さい。)
地理院地図、東西 1.13km×南北 0.94km の範囲の地図です
・東西 1.13 km × 南北 0.94 km、
印:本殿の位置
HP等  神奈川県神社庁 神社情報 杉山大神
祭 神  五十猛命 ( いそたけるのみこと )
 天照大神 ( あまてらすおおみかみ )
由 緒  境内の掲示には次のやうにある。
杉山大神由緒

鎮座地 川崎市幸区小倉277番地
祭神  五十猛命 素戔鳴尊第二子 緑豊かな国造りの神
    天照大神 日本国全体の守護神
境内社 道祖神社 道路 交通の守護神
大祭  八月 元十月十八日斎行
特殊神事 湯立の式 大祭当日行う穢れを清める式
由緒沿革
 当社の鎮座は古く、飛鳥時代、大化の改新によって国郡制度を敷いた頃より祀られており、近年まで境内地にあった神木樹齢一千年余の二株の古松が、その歴史を物語っている。当時、小倉村は皇室直轄領として栄え、杉山大神は、その村落の守護神として農業生活の中枢をなして来た
 戦国時代に至り、北條氏の家臣で、小机城主であった笠原氏の崇敬を受け、しばしば、その代参を迎えた
 江戸時代には、小倉村は、旗本松下氏の領地となり毎年米三俵の寄進を受けて神社は維持された 領主松下氏は、乗馬して参詣したと伝えられ、近年まで鳥居前に下馬札が立てられていた
 新編武蔵風土記稿には「杉山社村の東北端にあり本社に覆屋あり、前に石の鳥居あり、本地不動、長さ二尺許りの立像なり村の総鎮守なり 無量院持」とある
宮司 岩澤具治記
   一月元旦際 交通安全 村鎮祭
祭事 三月春水祭九月赦日祭
   十一月七五三祭
 昭和六十一年一月一日 奉納 岸正久

 神奈川県神社誌には次のやうに載ってゐる(1)
由緒沿革  創建の由来は詳らかでないが、境内に古松の神木二株あり、樹齢一千年に近いと推定される。安閑天皇紀に橘花屯倉と見えるが現在の小倉村はその遺名であろうか。此の小倉村の北方に市坪という地名があるのは条里制の遺構ともいわれる。又、隣接する御宅郷も古郷であり、これら上代自然村落生活の中心が当神社であったとも考えられる。戦国時代に至り、此の地方の勢力拠点たる小机城に笠原氏あり、杉山大神は此の笠原氏の崇敬を受け屡々代参があったという。江戸時代には小倉村は旗本松下氏の采地となり、毎年米三俵の寄進をうけ、庄屋組頭等の肝煎に依って神社は維持された。領主松下氏は時に乗馬して参詣したと伝える。
 現在祭事の特殊慣習に大番頭、小頭役が一年祭礼に関し一切を司る風習があり、村民一代一度の重事と信ぜられている。これは頭屋の慣習の名残りで、古く宮座の組織の存在も推定される。
 尚新編武蔵風土記橘樹郡川崎領の条に「杉山社、村の東北端にあり、本社に覆屋あり、前に石の鳥居あり、本地不動、長さ二尺許の立像なり、村の総鎮守なり。無量院持」とあり、境内の石造明神鳥居一基(高さ一丈一尺、柱間九尺、笠石一丈三尺)には「天明八年九月北嶺南山玉林沙門覚田建之」との記銘を存する。
雑 記  東海道本線品鶴線新川崎駅から南南西へ0.7kmのところにある。

 参道入口当りに庚申塔がある。覆屋があり榊が供えられてゐる。掲示に享保二十年講中八人によって祀られ元は当社南側の南加瀬尋常高等小学校校庭そばにあった、平成元年にお堂並周囲の改修をした旨、説明されてゐる。(高等尋常小学校の門と当社鳥居は向きあってゐた模様。昭和七年に鹿島田尋常小学校と統合してゐる)

明治22年に小倉村を含め7村が合併して日吉村が成立、昭和12年日吉村の内、東部の小倉・鹿島田・南加瀬は川崎市、西部は横浜市に分割編入されてゐる。

写 真  (拡大写真は新しいタブ又はウインドウで開きます)

写真1


写真5


写真2


写真3


写真4  参道入口にある伏見稲荷社


出典・脚注
  1. 『神奈川県神社誌』 神奈川県神社庁編 昭和57年(1982) p.111 杉山大神

改訂記録
  • 令和06.04.10 ページ内の配置変更(スマホでの閲覧に配慮)。 写真に番号を附した。 神社庁web神社情報のリンク修正。

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