よみ
ひえいだいじんじゃ(神奈川県神社庁神社情報)
ひえだいじんじゃ (当社HP)
| 所在地
| 川崎市川崎区小田2-14-7 (北緯35度30分52.79秒 東経139度42分0.25秒)
地図:地理院地図
いつもNAVI
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地 図
| 参拝当時の地図です。 (最新の地図は所在地欄のリンク先をご覧下さい。)
・東西 1.13 km × 南北 0.94 km、
・○印:本殿の位置
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HP等
| 神奈川県神社庁 神社情報 日枝大神社
当社 HP
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祭 神
| 大山咋命 ( おおやまくいのみこと )
大山津見命 ( おおやまつみのみこと )
天照皇大神 ( あまてらすすめおおみかみ )
木花開耶姫命 ( このはなさくやひめのみこと )
大国主之命 ( おおくにぬしのみこと )
豊受姫命 ( とようけひめのみこと )
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由 緒
境内に由緒が掲示されてゐる。昭和五十三年に設置されたもので大きな一枚板に墨書されてゐる。なお、しみがひどく読取れない文字もあつた。
日枝大神社御由緒沿革
御祭神 大山咋命(神) 世に山王ともいわれ土の○○またの名○○山末○○
御功績 山城丹波地方を開拓せられ特に水害を○○庶民の社会福祉を図りました 国土就中都市開発と建設の守神で造酒の神○○でも有ります
日枝大神社は皇紀1608年 天暦二年戌申(西暦948年五月中日)人皇六十二代村上天皇の御代京都比叡山坂本山王権現(日吉神社)の御分霊を勧請したもので 山王権現と号し比叡宮と称し○○○
初めは小田村の西隅に社殿がありましたがいつの頃○○○(不明)現在の処に遷座をされたといわれます 旧跡地には有名な銀杏の木があって大正時代まで残っていたとのことです
旧幕(江戸幕府)の頃御朱印地拾石で隣村下新田村(○田町)菅沢村(現鶴見区菅沢町)等の総鎮守でした
大祭は四月中の申の日 神輿渡御の際は村内旧家十二人がいずれも馬に乗り警固供奉して三ヶ村を巡幸しました その行列は頗る古風を極めたものといわれます
明治維新までは真言宗円能院が別当職でした
明治六年十二月村社に列せられて社号も日枝大神社と改められ 大祭日は五月十五日と定められました
大正十三年三月十四日神饌幣帛供進する神社に指定されました
昭和二十年四月十五日太平洋戦争の戦禍に罹り氏子の九割と共に焼失いたしました
昭和二十四年五月十四日本殿再建翌年五月仮拝殿建設
昭和三十二年四月十五日現在の御社殿を復興完成いたしました
社にご一緒に祭られている神
天照皇大神 大山津見命 木花開耶姫命 大国主之命 豊受姫命
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神奈川県神社誌によると、「明治四十二年三月十四日、無格社浅間社、杉山神社、神明社、下新田稲荷社を合祀した」とある(2)。
新編武蔵風土記稿には次のやうに載つてゐる(1)。( )内は割注部分。
山王社 (御朱印十石村ノ中央ニアリ本社宮造リ九尺ニ二間拝殿三間ニ二間神体丸キ石ナリ円周八九寸別ニカワリタル石トモ見エス土人云古ノ神体ハ黄金ヲモテ作レル扇子ノ開キタルニ日月星辰ヲ○タルモノナリトイツノ頃カ賊ノ手ニ奪ハレタリト後ソノ形ヲ真鍮ニテ模シ年々祭礼ノコロハ今ノ里正栄助カ家ニテ承リ馬上ニテ棒持シ御輿ノ先ニタツ古例ナリトソカノ真鍮ニテ作レル扇子ト云ヘルモノモ近来ノモノニテハナク古色ナリ例祭年々四月中ノ申ノ日ナリ隣村下新田菅沢当村スヘテ三村ノ鎮守タルニヨリ祭ノ頃ハ此三村ノモノトモ出テトリ行ヘリ中ニモ御輿ノ前後ヲ馬上ニテ守護スルモノ十二人ナリ村内ヲ過テ下新田菅沢村ヲワタシテ夫ヨリ社地ニ還レリ此山王ハモト比叡山坂本山王権現ノ遙拝ノタメニ爰ニ社ヲ設クルコトトソ故ニ比叡ノ宮ナトイヘルモアリ是モその始ヲシラスタタ口碑ニ伝ルノミ稲毛領平村ヨリ禰宜来リテトリヲコナヘリ拝殿ノ前ニ石鳥居ヲタツ東向の社ナリ)
八王子社 (社ニ向テ右ノ方ニアリ末社ナリ下同)
子ノ神三峯合社 (社ニ向テ左ノ方ニアリ)
別当円能院 ((中略)山王の縁起左に出ス)
円能院山王権現縁起
武州橘樹郡河崎之領小田村氏者惣廟山王大権現天歴弐戌申三月申日京都従比叡山遷
(以下略)
杉山社 (村ノ西ノ方ニアリ小社南向前ニ小鳥居アリ)
比叡宮 (宮地ハカリニテ社ナシ社地中ニ大ナル銀杏樹アリ是ヲ神木トス村ノ西隅ニアリ)
伊勢宮 (村ノ南ノ方ニアリ小社前ニ小鳥居アリ)
浅間社 (村ノ南ノ方ニアリ小社)
山神社 (村ノ東ノ方ニアリ前ニ石鳥居アリ以上ノ五社ハ皆山王御朱印地ノ中ニタテリ共ニ円能院ノ持ナリ)
稲荷社 (字釜ケ淵ニアリ小社ナリ村持)
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| 雑 記
| 南武線(浜川崎支線)川崎新町駅から南へ0.3km余、小田栄駅から西へ0.4kmの所にある。
授与所で御朱印をいただく際、一風変ったお守に気づいた。ハローキティのやうでたくさんの種類がある。伺ったところサンリオキャラクター御守発祥の地との事、宮司さんの好みもあるやうな。
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