神社訪問記HP神奈川県川崎市

橘樹神社(神奈川県川崎市高津区子母口)

参拝日 平成29年12月6日(水)
作成日 平成31年3月23日(土)
追記日 令和6年4月8日(月)
よみ  たちばな じんじゃ  
所在地  川崎市高津区子母口(しぼくち)122 (北緯35度27分20.01秒 東経139度36分12.86秒)
 地図:地理院地図  いつもNAVI  
地 図  参拝当時の地図です。 (最新の地図は所在地欄のリンク先をご覧下さい。)
地理院地図、東西 1.13km×南北 0.94km の範囲の地図です
・東西 1.13 km × 南北 0.94 km、
印:本殿の位置
HP等  神奈川県神社庁 神社情報 橘樹神社
祭 神 > 倭建命 ( やまとたけるのみこと )
 弟橘比賣命 ( おとたちばなひめのみこと )
由 緒  新編武蔵風土記稿には次のやうに載ってゐる(1)。( )内は割注部分。
立花社 (村ノ西ニ寄テアリ祭神ハ日本武尊橘樹姫ノ二神ナリ日本武尊ハ束帯ニテ剣ヲ杖ツキ御首ニ鉢巻ヲナシタマヘル姿ナリ長一尺三四寸橘樹姫モ装束ニテ瓔珞ノ下リクル女冠ヲメサレ両手ニ鏡ヲサヽケタマフ形ナリムカシハ玉ナリヲ今ハ鏡ニカヘシト云尤古キ像ニハアラサルヘシ社ハ小宮ツクリニテ覆屋アリ拝殿三間ニ六間半南向キ前ニ鳥居ヲタテリ柱間八尺土人ノ説ニ此立花ノ社アルヲ以テ郡ノ名起レリトイヘリサレトマサシク証拠トスヘキモノナケレハナホカツカナシタヽシ立花ヲモテ唱フレハ古キ宮ナルコトハ論ナシ永徳四年二月二十六日神田二段ヲ附シ事前ニ載ル文書ニミユモシ中古郡ノ名ニヨリテ祭ソメタランニモ古キキコトシルヘシ例祭九月九日ナリ村内蓮乗院ノ持ナリ)
 末社稲荷社 (社ノ右ノ傍ニアリ)
 弁天社 (左ノ方ナリ)

 神奈川県神社誌には次のやうに載ってゐる(2)
由緒沿革 社伝によると倭建命東征の折海が荒れ、弟橘樹比売命が入水して海神を鎮められた。その後比売命の着物、冠が漂着した地に廟を建て、更に二柱を祭る社が建立された。神社の当方百メートル程の丘に廟があったと伝えられる。橘樹群の郡名は、当神社の社名よりつけられたといわれ、郡中の総社として多くの崇敬者を集めた。社殿は元禄元年再建、嘉永四年には郡中124ヶ村に寄付を募り再建、昭和四十二年社殿を改修、銅板葺とした。

 境内の碑文には次のやうにある。
橘樹神座修復記念碑
祭神 日本武尊
   弟橘樹媛
 日本武尊が御東征のみぎり 当地方から房総半島方面へ渡航せんとした際 海神の怒りか海が大いに荒れたため 御妃の弟橘樹媛がその怒りを鎮めようと 尊の身代りとして海中に身を投じられた
 媛のこの崇高な行為により荒れ狂っていた波浪も忽ち静かとなり 尊の御一行は無事に度海することができた 後日 媛の装身具の一部がこの地に漂着し 村人は媛を憐れんでそれを此の地に埋めて祀った
 尊は御東征の帰途 再び此の地に立寄り媛を慰霊するため一社を建立したのが当社の創建と伝えられている

 当社は嘗て橘樹群総社として崇敬され 江戸名所図会にも掲載された由緒ある神社であり 現在の社殿は当時の氏子の熱意により現在から百三十七年前に改建されたものである
 しかし 歳月の経過と共に各所が老朽化し放置できない状態となったため 遠い時代より祖先が崇敬し維持してきた神社を修復し 次の世代に引継ぐことは現在の者の責務であるとし 平成と改元された記念事業として多数の有志の浄財によりこの工事を実施した
  平成二年十月吉日
橘樹神社修復委員会
雑 記  南武線武蔵中原駅から南西ないし西南西へ1.6km、武蔵新城駅からは南ないし南南西へ1.7kmのところにある。

 海からは10km以上離れてゐるが、近くを流れる矢上川、江川当りは標高8mくらいなのでかつては海だったとは容易に想像できる。当社は丘陵地の端辺りにあり、東250m当りには子母口貝塚が、北ないし北北西200m辺りには古墳がある。

 境内には慰霊碑がある。碑誌には次のやうに刻まれてゐる。
碑誌
国家の存亡をかけた太平洋戦争及び日清日露の両戦争の際、子母口からも幾多の有為な青年が愛する肉親や郷土と別離し、万里の波濤を越えて酷寒の大陸に或いは灼熱の南方戦線へと苛烈な戦場へ向いましたが無念にも敵弾に斃れ或いは病魔に侵され、あたら若き生命を遠い異郷に散華し再び故郷の土を踏めなかった十六柱の英霊に対しその遺族は勿論、私共、同じこの土地に生を受けた有縁の者として衷心より哀悼の意をささげご冥福をお祈りするものです。
戦い終って三十三年、その後の我が国の復興は目覚しく、予想もしなかった平和と繁栄の現在を迎へましたが、これも祖国の不滅を信じ敢然として死地に赴き国難に殉じ平和の礎石となられた英霊のご加護もあるものと深く感謝いたします。しかしこの英霊の氏名も長い年月の経過と共に次第に忘却の彼方へおしやられることを憂い、忘れてはならない方々の霊を慰めると共に永くその名を留め、又、再びこのような悲しみのない永への平和を祈念する趣旨のもとに、地区内有志計って征旅の門出に縁のある当神社境内にこの慰霊碑を建立しました
 昭和五十三年十一月 子母口慰霊碑建立委員会

写 真  (拡大写真は新しいタブ又はウインドウで開きます)

写真1


写真2  向拝の彫刻拡大(152kb)


写真3  拡大(640×320)


写真4  拝殿内の扁額・絵馬


出典・脚注

改訂記録
  • 令和06.04.08 ページ内の配置変更(スマホでの閲覧に配慮)。 写真に番号を附した。 神社庁web神社情報のリンク修正。

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