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八幡社(神奈川県川崎市多摩区宿河原)

作成日 平成31年4月20日
よみ  はちまんしゃ 地理院地図、東西 1.13km×南北 0.84km の範囲の地図です
(東西 1.13 km×南北 0.84 km)
参拝日  平成30年1月16日(火)
所在地  川崎市多摩区宿河原3-21-7 (北緯35度36分49.04秒 東経139度34分43.15秒)
 地図:地理院地図  いつもNAVI
HP等  神奈川県神社庁 神社詳細 八幡社
祭神  応神天皇 ( おうじんてんのう )
由緒  新編武蔵風土記には次のやうに載ってゐる(1)。( )内は割注部分。
正八幡宮 (村ノ中央字北村ノ内観音堂地内ニアリモト社地御畝六歩多摩川北岸ニ在シカ川瀬北ニ移リテ悉ク流失セリ故ニ観音堂ヲ常照寺境内二移シテシハラク其跡ヘ社ヲ建村ノ鎮守ナリ大サ三間ニ二間ノ社ニシテ艮向ナリ神体ハ弓箭ヲ把テ馬ニ跨リシ容ニテ長五寸許例祭ハ九月廿八日ナリ勧請ノ年代ヲ伝ヘス常照寺ノ持ナリ)
 神奈川県神社誌には次のやうに載ってゐる(2)
由緒沿革  新編風土記によると「正八幡宮は村の中央北村の内観音堂地内にあり、もと多摩川北岸に有りしが、安政九年六月川瀬北に移りて悉く流出せり。故に観音堂を常照寺境内に移してしばらく其跡へ社を建つ、村の鎮守なり。神体は弓箭を取りて馬に跨りし容にて長五寸許り。勧請の年代を伝えず、常照寺の持なり。」と記している。
雑記  宿河原駅から南南西ヘ0.3kmの所にある。

 写真にある「御神木黒松跡」について掲示があり、「枯れに伴い伐採(樹齢約三百二十年)」また、平成24年9月11日の神官によるお祓ひ、20・21日の伐採作業、都合7枚の写真もある。

 忠魂碑が、鳥居をくぐって左手にある。戦没者氏名のほか次の碑分が刻まれてゐる。なほ、漢字は正字体が用いられてゐるが、当用の字体に置換えた。
碑に銘記せられたる諸士は明治より昭和に亘る戦役に於て
戦没せられたる勇士なり凡そ戦に臨むに一身一家を顧みす
総へての恩愛と一切の地位名声とを捨て只管道義の大道に
歩みて潔く国家に対して身命の犠牲を捧けんとす素より衷
心恩愛の絆に泣き後図を思うや痛惜に耐へさりしならんも
唯一途に己か本文として従容死地に就く蓋し至大崇高なる
信念と謂ふへし嗚呼諸士は或は身を北辺の曠野に晒し或は
南方洋底の屍となる憾むらくは尊き諸士の志も空しく敗戦
の悲運に遭ふ悲憤の涙抑え難し唯謂へらく諸士の犠牲に因
り民族的自覚心の覚醒となり世界永遠の平和を齎し民主主
義的国家繁栄の礎石ともならは諸士も亦瞑して可ならん迂
生等元軍籍にありし者諸士と其の志を同うす唯命長らへる
夢寐の間も諸士の面影を偲ふ終戦茲に十年感慨愈々切に追
懐益々深し同士相寄り相図り戦友の志を千載に留め深く其
の忠魂を慰めんと本碑建設を計画す幸にして町内有志の絶
大なる賛同を得茲に目的達成を見るを得たり依つて聊か蕪
辞を述へて微志の一端を誌す
昭和三十一年九月           伊藤愼三文並書 
   (念のため  只管;ひたすら 蓋し:けだし 憾む:うらむ 齎し:もたらし 迂生:うしょう 蕪辞:ぶじ)

 「諸士の犠牲に因り民族的自覚心の覚醒となり世界永遠の平和を齎し」と云つてくれてゐるのはありがたい。

写真




御神木黒松跡

脚注
  1. 『新編武蔵風土記稿』 巻之六十一 宿河原村の条 (同書は文政13年(1830)成立。明治17年刊の内務省地理局による翻刻本を引用、漢字は当用の字体に置換へた)
  2. 『神奈川県神社誌』 神奈川県神社庁編 昭和57年(1982) p.129 八幡社


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