よみ
しらはたはちまんだいじん
| 所在地
| > 川崎市宮前区平4-6-1 (北緯35度35分49.74秒 東経139度34分15.14秒)
地図:地理院地図
いつもNAVI
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地 図
| 参拝当時の地図です。 (最新の地図は所在地欄のリンク先をご覧下さい。)
・東西 1.13 km × 南北 0.94 km、
・○印:本殿の位置
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HP等
| 神奈川県神社庁 神社情報 白幡八幡大神
Wikipedia:白幡八幡大神
当社 HP
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祭 神
| 応神天皇 ( おうじんてんのう )
神功皇后 ( じんぐうこうごう )
玉依姫命 ( たまよりひめのみこと )
伊弉冉命 ( いざなみのみこと )
事解男命 ( ことさかのおのみこと )
速玉男命 ( はやたまおのみこと )
天照皇太神 ( あまてらすすめおおみかみ )
国常立命 ( くにのとこたちのみこと )
倉稲魂命 ( うかのみたまのみこと )
日本武尊 ( やまとたけるのみこと )
天満大神 ( てんまんおおかみ )
奥津島姫命 ( おきつしまひめのみこと )
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由 緒
新編武蔵風土記稿には次のやう載ってゐる(1)。( )内は割注部分。
八幡宮 (村ノ中央ニアリ源栄山白旗八幡ト号ス神供免三石余ナリ社ニ云フ鎌倉ノ右大将源頼朝奥州ノ泰衡の征伐ノ時此度ノ軍利アラハ鎌倉ヨリ奥州マテノ海道ノ十里コトニ八幡一祠ヲ建立セント誓言アリシカ果ノ勝利ナシシカハ建久三年ニ至リテツヒニ誓ヒノ如ク鎌倉ヨリ奥州マテノ間ニ数ケ所ノ八幡ヲ勧請セラル当社ハ其一ナリト此事東鑑等ニハサラニナキ事ナリ鎌倉ノ古海道ハ今隣村土橋村ノ内ニ其跡遺レリ神体ハ応神天皇ノ一座ニテ二尺許リノ木造ナリ村ノ総鎮守ニシテ例祭ハ貳月始ノ卯ノ日ト定メ社前ニ於テ射術ノ式アリ尤其形ハカリナリ本社ハ一間四方許ノ宮作りニシテ覆屋アリ拝殿ハ二間四方稲毛総社八幡宮ノ七字ヲ扁ス前ニ石階アリテ其下ニ鳥居タテリ神主小泉信濃カ事ハ村内熊野権現ノ神職ヲ兼テシカモ権現ノ傍ニ居ル故其所ニ事実ヲ出セリ天正十九年東照宮ノ命アリテ御武運長久ノ御祈祷ヲナセシニヨリ当社ヘ神供免七十石余ノ御朱印ヲ賜レリ慶長五年台徳院殿関ケ原御出陣ノ時釣命ニヨリテ御祈祷ノタメ太々神楽ヲ興業セリ御凱旋ノ後神器等御寄附アリ同キ十九年大坂御出陣御首塗ノ時先年ノ御吉例ヲ以御祈祷ヲ命セラル御凱旋ノ後モ神主伊予ヲ召出サレテ銀子若干を賜ハル後イツノ頃ニカ社地回禄ノ時御朱印烏有トナリシカハ是マデ賜ハリシ七十石ノ地ハ収公セラレ又其後願ヒ上ゲテ三石免ノ地ヲ除セラレシヨリ今ニ至ルマテ先規ノゴトク御祈祷怠ラス)
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参考 台徳院:二代将軍 徳川秀忠
明治神社誌には次のやうに載ってゐる(2)。
神奈川県武蔵国橘樹群向丘大字平
郷社 白幡八幡大神
祭神 玉依姫命 応神天応 神功皇后
伝云ふ、後冷泉天皇喜四年、源頼義、勅を奉じ安倍頼時を討つの途次、鎌倉八幡宮に詣で祈る所あり、毎十里に幣を立つ、康平四年凱旋の日、先に幣立てし地毎に、八幡宮を勧請す、当社実に其の一なりと、建久三年源頼朝再建、降て天正十九年、徳川家康社領七十石の朱印を寄す、慶長五年徳川秀忠、関ケ原出陣の際、神楽をのうのう市装束を寄す、同十九年大坂出陣に際し、先年の吉例に依り、銀子並時服を社職小泉某に賜はる、後社殿焼失の際、朱印状亦烏有に帰し、為めに領を失ひしが、後特に三石余を寄せらる、古来稲毛一郷の総社にして、源栄山白幡八幡宮と称す、万治三年五月中旬奉納せる源栄山云々の額、今に存す(以上社旗に拠る)明治六年社格制定の際、郷社に列す。
社殿は本殿、拝殿にして、境内地は二千百七十坪(官有地第一種)あり。
例祭日 九月二十一日
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神奈川県神社誌には次のやうに載ってゐる(3)。
由緒沿革 康平年間に源頼義が奥羽二国征討の途上、八幡大神の御加護を祈願し、「よく大命を完了することを得ば鎌倉より街道十里ごとに八幡祠一宇を奉祠せん」と誓約し、後勅命を果すことが出来たので康平四年(1061)当社を奉祠したが、源頼朝が鎌倉に幕府を開いてから建久三年当社を再建した。その後近郷下菅生村、馬絹村、宿河原村等に御分霊を奉斎するようになり稲毛総社と称せられた。徳川家康江戸城に移るに至って当社に武運長久の祈祷を行い報賽として神供免田七十石余を朱印地として奉納された。今なお鎮斎されている御神像は享保十二年の奉彫である。明治六年郷社に列した。現社殿は昭和四十八年十一月十八日再建されたものである。
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川崎市教育委員会による掲示があり、次のやうに記されてゐた。
白幡八幡大神と禰宜舞
禰宜舞(ねぎまい)は、白幡八幡大神の神主小泉家に代々伝わる、口伝による一子相伝の舞です。
舞は、素面(すめん)による四方祓(はらい)の舞のあと、その都度、面・衣装・持物をとりかえて、猿田彦命(さるたひこのみこと)・天鈿女命(あめのうずめのみこと)・天児屋命(あめのこやねのみこと)・彦火火出見命(ひこほほでみのみこと)・大山祇命(おおやまずみのみこと)の神々を一人で舞います。
舞は、古い巫女舞(みこまい)の影響を受けて、舞の所作に神招き・神懸りの古風が見られるとともに、出雲流神楽の系統を引く関東里神楽の特徴がとり入れられた独特のものとなっています。
川崎市教育委員会は、禰宜舞(付 神楽面 五面 江戸時代後期作)を、昭和五十九年十月三十日、川崎市重要習俗技芸に指定しました。
なお、この舞は七月二十日及び、九月二十一日前後の日曜日に社殿で舞われます。
昭和六十年 十月
川崎市教育委員会
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| 雑 記
| 東急田園都市線宮崎台駅から2.1km、南武線武蔵溝ノ口駅から西へ3.7kmの所にある。
境内に「明治卅七八年戦役記念之碑」がある。六十名程の氏名が刻まれてゐて二名には「戦死」とある。
下の写真には無いが、社号標は「稲毛総社 白幡八幡大神」「総和四十七年四月吉日建之」とある。また、向拝の扁額にも「稲毛総社 白幡八幡大神」とある。祭神が十二柱もあるのは総社故なのだらう。
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