神社訪問記HP神奈川県川崎市

諏訪社(神奈川県川崎市多摩区長沢)

参拝日 平成30年1月16日(火)
作成日 令和元年5月1日(水)
追記日 令和6年4月7日(日)
よみ  すわしゃ  
所在地  川崎市多摩区長沢4-7-1 (北緯35度35分57.94秒 東経139度32分13.00秒)
 地図:地理院地図  いつもNAVI  
地 図  参拝当時の地図です。 (最新の地図は所在地欄のリンク先をご覧下さい。)
地理院地図、東西 1.13km×南北 0.94km の範囲の地図です
・東西 1.13 km × 南北 0.94 km、
印:本殿の位置
HP等  神奈川県神社庁 神社情報 諏訪社
祭 神  建御名方命 ( たけみなかたのみこと )
 天照大御神 ( あまてらすおおみかみ )
 大己貴命 ( おおなむちのみこと )
由 緒  境内の掲示には次のやうに記されてゐる。
諏訪社   (川崎市多摩区長沢四丁目七-一)
  祭神 建御名方命 ( たけみなかたのみこと )
     天照大御神 ( あまてらすおおみかみ )
     大巳貴命 ( おおなむちのみこと )
由緒
 諏訪社は文治三年(1187年)九月七日右大将源頼朝の命により稲毛三郎重成の創始とされています  稲毛三郎重成の居城枡形山の西方にある高燥の地に諏訪社を造り、信濃国諏訪大社の御分霊を勧請し永くこの地の鎮護をなしています
 後の明治四十三年十月七日に神明社と日枝社が当社と合併し合祀されました
    神明社 祭神 天照大神
    日枝社 祭神 大巳貴命
 現在の社殿は明治二年八月建立の社殿が老朽化した為、氏子総意によって昭和五十二年(1977年)四月再建されたものです
 この社殿内には小野小町が舟上より短冊を海に流している額が掛けられており、里人はこれを「雨乞いの額」と呼んでいます
 当社では雨乞いの神事もおこなわれてきました 日照りが長く続く際には、氏子代表が大山の阿夫利神社に詣で、持帰った水を当社に奉納し、境内で待っていた氏子全員で雨乞いの祈願をしました
 また、当社は無病息災・心願成就の神社と伝えられ、社頭に供えられた小石を祈願の主は謹んで戴き帰り計二個を戻し、報謝する習わしがあります
 尚、諏訪社の特徴の一つである参道や境内の豊かな樹木は室町時代(1530年頃)に戦乱や風雨にさらされた社殿を改造したおり、杉や松などの樹木を植え、厚く祭祀を行ったのが現在でも伝統として残っています
(新編武蔵風土記稿他伝承記事による)

 神奈川県神社誌には次のやうに載ってゐる(1)
由緒沿革  室町時代に甲州の人、各務与惣ェ門がこの地に土着し、故郷の諏訪明神を慕って創建したものという。

 新編武蔵風土記稿には次のやうに載ってゐる(2)
諏訪社 (字長沢ニアリソノ所ノ鎮守ナリ勧請ノ年代ヲ詳ニセス本社ハ宮作ニテ覆屋アリ諏訪大明神ノ五字ヲ扁ス天海書トアリ例祭ハ年々九月十六日ナリ盛源寺持)
神明社 (字中沢ニアリコレモ長沢ノ鎮守ナリ本社ハ宮作ニテ覆屋アリ前ニ坂アリ例祭八月七日諏訪ノ社ト隔年ニ行ハル菅生村広福寺持)
雑 記  小田急線生田駅から南ないし南南西へ1.7kmの所にある。

 当地は、江戸時代には五段田村で、明治8年に上菅生村と合併し生田村となった。明治22年に四村が合併し生田村が成立し、昭和13年に川崎市に編入されてゐる。

 境内には次の碑があった。

 「神明社石坂寄附連名」の碑は、氏名の他、「明治三十二年九月十六日建之」と刻まれてゐる。

 「正露戦勝記念碑」の背面には、戦死者一名の氏名、従軍士者氏名と「明治卅九年四月三日樹之長澤中」と刻まれてゐる。

 「諏訪社改築之碑」の背面には
   「再建之記 昭和五十年十一月八日氏子總會を開催し既存社殿の老朽荒癈を憂、氏子の總意を以て改築を決定
    昭和五十一年九月十七日 起工式
    昭和五十一年十月二十一日 上棟式
    昭和五十二年四月吉日 完成
    昭和五十二年五月二十二日 遷座式」とある。

 「大東亜戦争 出征記念碑」には「靖国神社宮司 松平永芳」、背面に戦没者十六名の氏名と日付・場所が、また出征者八十名余と次の碑文が刻まれてゐる。
満州事変を契機に、第二次世界大戦は東南アジア及び、南太平洋方面に拡大し、動員された兵力は千数百万、戦火に散った英霊は三百万と言われている 戸数九十余戸の長沢部落から出征者百余人を送る。また、当地も空襲により戦場と化し、中谷、餅坂地区は敵機の爆撃により多数の民家が炎上し、爆死者一名(関口ヨシ)を出す。二十年三月、塔の越谷の水田に米軍機B29が墜落し、六十余屯の巨体は数百米に四散す。二十年八月十五日、陛下の御聖断により終戦となる。必勝を期し勇躍出征した同郷の士 復員者八十六名、雄図空しく戦没された英霊は十六柱に及ぶ。国土の荒廃と物資の欠乏はその極みに達し、戦争の末路の悲愴さを痛感する。一億国民は一丸となり祖国復興の戦死として邁進し、戦後三十余年にして世界有数の経済大国となる。在郷の有志相謀り、散華した英霊の冥福を祈ると共に国家の安泰と、世界の平和を祈念して、此処に一碑を建立する。
 昭和五十四年十一月吉日建之
記念碑建設委員会
松五郎 花押 撰文

写 真  (拡大写真は新しいタブ又はウインドウで開きます)

写真1  参道入口


写真2


写真3


写真4


写真5


写真6  向って右から「神明社石坂寄附連名」の碑、「正露戦勝記念碑」「諏訪社改築之碑」「大東亜戦争 出征記念碑」


出典・脚注
  1. 『神奈川県神社誌』 神奈川県神社庁編 昭和57年(1982) p.128 諏訪社
  2. 『新編武蔵風土記稿』 巻之六十 五段田村の条 (同書は文政13年(1830)成立。明治17年刊の内務省地理局による翻刻本を引用、漢字は当用の字体に置換へた)

改訂記録
  • 令和06.04.07 ページ内の配置変更(スマホでの閲覧に配慮)。 写真に番号を附した。 神社庁web神社情報のリンク修正。

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