神社訪問記HP神奈川県 > 川崎市

秋葉神社(神奈川県川崎市麻生区上麻生)

参拝日 平成30年10月8日(月)
作成日 令和2年1月4日(土)
追記日 令和6年3月30日(土)
よみ  あきは じんじゃ  
所在地  川崎市麻生区(あさおく)麻生区上麻生6-34-1 (北緯35度35分3.74秒 東経139度29分58.96秒)
 地図:地理院地図  いつもNAVI  
地 図  参拝当時の地図です。 (最新の地図は所在地欄のリンク先をご覧下さい。)
地理院地図、東西290km×南北270km の範囲の地図です
・東西290km 南北270km
印:当社位置


地理院地図、東西 1.13km×南北 0.94km の範囲の地図です
・東西 1.13 km × 南北 0.94 km、
印:本殿の位置
HP等  ─
祭 神  三尺坊秋葉大権現
由 緒  新編武蔵風土記稿の浄慶寺の項には次の記載がある(1)。( )内は割注部分。
秋葉祠 (本堂ニ向テ右ノ丘上ニアリ二間ニ三間西向ナリ神体ハ長一尺八寸許其作伝ス)

 社前の掲示には次のやうにある。
秋葉大権現縁由
當山鎮守三尺坊秋葉大権現は遠江国大居村なる太登山秋葉寺の三尺坊大権現と同木同作にて行基菩薩の彫刻し給いしなり 其始の同国城釣の郡比邑に鎮座し奉りて総鎮守なりしなり 然るに此の麻生村に支配(知行)せらるる三井家にて領地せられたればなりけり 其辺は同国相良に因たる地なれば公より命令ありて宝暦十二壬午年相良の城主田沼侯に賜へり 三井家には駿河国の岡部と藤枝の駅の北へ替へ地を賜へりしなり 斯て当時は此の村を三井家天正年中より領知せられて祖先寿光院殿を葬りて菩提寺とし開基造営せられしなりければ其地替の時しも秋葉大権現を遷座し奉られしなりけり 因にいう三井家後に菩提寺の増上寺なるは忝しくも東照神祖の異なる思慮おはしまして二代なる
 見樹院殿乃
命を蒙りてなり 其の後祖先寿光院殿は永禄十二巳己年三月神祖小牧山に出陣し給いし時長湫の役に敵として闘戦し粉骨砕身して遂に自刃せられたり 然武功を立られたる跡なればなりけり 爾当山に秋葉大権現を鎮座し奉られしは三井家領知の村に火防厄難消除五穀豊熟諸氏安穏の為也
  武蔵国都筑郡上麻生村麻生山浄慶寺現住
  元治元甲子年兼坂     彰譽達圓

    観世音御縁日  十八日
    三尺坊御縁日  廿四日

 転記者註 長湫:ながくて(長久手)
雑 記  小田急線柿生駅から南南東へ0.6kmの所にある。浄慶寺境内にある。

 いずれ静岡県にある秋葉山本宮秋葉神社に参拝に行きたいとは思ってゐたものの、今までは、秋葉山の秋葉神社から勧請した、等の表現で判ったつもりでゐた。今回、縁由にある「三尺坊」とは何? と思って調べたら秋葉山本宮秋葉神社のHPには記載の無い事が色々書かれてゐた。備忘のため、リンクを記しておく(2)

 社前の縁由を読んでも判りが悪く、悩んでゐたら、石材屋さんのサイト(3)に簡潔に纏められてゐた。引用すると、
・当寺は、天正10(1584)年、麻生の領主三井左衛門慰が小牧長篠の戦に出陣・戦没した父・寿光院の菩提を弔って開創した
・東京・小石川の伝通院(徳川家康の生母の菩提寺)から、戦後、浄誘尼・浄山尼・浄香尼の三尼僧が住職を勤めてゐる
・秋葉神社は、江戸時代、領主三井家が勧請したもの
といふ。
 武蔵風土記稿には元和元年(1615)開山としてゐる。

 尚、確かな史実として、
 ・天正10年(1582)6月に本能寺の変
 ・天正12年9月に長久手の戦ひ
 ・長篠の戦ひは、天正3年に長篠城をめぐり織田徳川軍と武田軍の間で行はれた戦ひ
 ・小牧・長久手の戦ひは、天正12年3月から11月にかけて秀吉陣営と織田徳川陣営の間で行はれた戦ひ
が起ってゐる。

写 真  (拡大写真は新しいタブ又はウインドウで開きます)

写真1  浄慶寺入口、秋葉社の鳥居が見える


写真2  階段の上に社殿がある


写真3


写真4


出典・脚注
  1. 『新編武蔵風土記稿』 巻之八十六 上麻生村の条 (同書は文政13年(1830)成立。明治17年刊の内務省地理局による翻刻本を引用、漢字は当用の字体に置換へた)
  2. 令和元年12月23日閲覧 Wikipediaの秋葉権現
  3. 令和元年12月24日閲覧 (有)ヤマト石材 寺院のご紹介「浄慶寺」

改訂記録
  • 令和06.03.30 ページ内の配置変更(スマホでの閲覧に配慮)。 写真に番号を附した。 神社庁web神社情報のリンク修正。

文頭へ移動  ホーム(神社訪問記)


inserted by FC2 system