神社訪問記HP神奈川県 > 川崎市

中野島稲荷神社(神奈川県川崎市多摩区中野島)

参拝日 平成30年10月17日(水)
作成日 令和2年1月18日(土)
追記日 令和6年3月28日(木)
よみ  なかのしまいなりじんじゃ  
所在地  川崎市多摩区中野島1-16-2 (35度37分44.08秒 139度32分47.73秒)
 地図:地理院地図  いつもNAVI  
地 図  参拝当時の地図です。 (最新の地図は所在地欄のリンク先をご覧下さい。)
地理院地図、東西 59km×南北 55km の範囲の地図です
・東西59km 南北55km
印:当社位置


地理院地図、東西 1.13km×南北 0.94km の範囲の地図です
・東西 1.13 km × 南北 0.94 km、
印:本殿の位置
HP等  神奈川県神社庁 神社情報 稲荷神社
 当社HP 中野島稲荷神社
祭 神  倉稲魂命 ( うかのみたまのみこと )
 猿田彦命 ( さるたひこのみこと )
 少彦名命 ( すくなひこなのみこと )
 蘭利姫命 ( らんりひめのみこと )
 菅原道真公 ( すがわらのみちざねこう )
由 緒   新編武蔵風土記稿には次のやうに載つてゐる(1)
稲荷社 (見捨地凡二段村ノ坤ニアリ相伝フ昔田中中休愚右衛門喜古新墾ノ企アリシ時二ケ領用水ノ圦(2)ヲ水上ヘノホセ堤ヲツキテ葭沼ヲ新墾セリコノ時堤鎮護ノ為ニ当社ヲ勧請セリト云後享保年間社再建ノ棟札アリ本社ハ小社ニテ前ニ拝殿アリ例祭九月十八日観音寺ノ持) 末社 秋葉社(本社ニ向テ左ニアリ) 天神社(向テ右ニアリ) 照信社(コレモ右ニアリ照信明神ト号ス照信ハ疱瘡神ノ異名ナリトソ)

 神奈川県神社誌には次のやうに載ってゐる (3)
由緒沿革 勧請の年月詳かでないが、慶長年間山城国伏見稲荷大社より勧請したと云う。
雑 記  南武線中野島駅から西南西へ0.4kmのところにある。西隣は中学校。
 
 狛犬(狐)は大正十年二月建設


 境内の稲荷社の由来は、土台にはめ込まれた石、及び社前の立札には次のやうに記されてゐる。
社誌  此ノ河除稲荷並ニ弁天社ハ元中野島堤塘敷ニ鎮座セルヲ昭和卅九年五月此ノ地ニ選宮ス以後各河川ノ護リ神トス
  昭和卅九年五月吉日
願主 奉賛会 
宮司 斉藤斌 
施工者安彦藤蔵
 此の稲荷は多摩川の堤防を洪水から守る為に造られた稲荷で河除稲荷(かわよけいなり)(河守稲荷(かわもりいなり))と呼ばれるものです。
 中野島6の2042番地先にあったものを堤防の拡幅に伴い、昭和三十九年 当神社境内に遷座し、此れを平成五年十月改築致しました。
中野島稲荷神社奉賛会
 河除稲荷の石祠は、刻まれてゐる日付から文化年間のものと思はれる。

 このほか、嘉永六年の年記のある石祠があった。

 神奈川県神社誌には、「境内社 神明神社」(他社は記載無い)とあるが、境内にある諸社のどれか判らなかった。風土記稿にある秋葉社・天神社・照信社は何処にあるのか、どうなったのか、判らない。

 境内に碑が二つある。
 一つは、「明治卅七八年戦役記念碑 元帥侯爵大山巌書」で、背面には従軍者十七名の所属と氏名が刻まれ、「明治卅九年十月建之 中野島」とある。
 もう一つは、「献魂碑」で、碑の趣旨は、独立を迎えたのを機に、大東亜戦争で帰らざるものとなった三十一名の雄魂を慰めんとして、元軍籍にあった者が建立した碑。昭和二十九年四月廿五日 川崎市中野島 献魂碑建立同志会とある。

写 真  (拡大写真は新しいタブ又はウインドウで開きます)

写真1


写真2


写真3


写真4


写真5  河除稲荷と弁天社(写真左側)、弁天社の石祠内には木製の神棚がある


写真6  弁天社、写真左手の石祠は稲荷社と思はれる。間のものは不明。


出典・脚注
  1. 『新編武蔵風土記稿』 巻之九十五 中野島村の条 (同書は文政13年(1830)成立。明治17年刊の内務省地理局による翻刻本を引用、漢字は当用の字体に置換へた)
  2. 圦:いり。《「圦樋(いりひ)」の略》土手の下に樋(とい)を埋め、水の出入りを調節する場所。水門。樋口(ひぐち)。樋(ひ)の口。(goo辞書 より)
  3. 『神奈川県神社誌』 神奈川県神社庁編 昭和57年(1982) p.135 稲荷神社

改訂記録
  • 令和06.03.28 (1)ページ内の配置変更(スマホでの閲覧に配慮)。 (2)写真に番号を附した。 (3)神社庁web神社情報のリンク修正。 (4)当社HPへのリンク修正

文頭へ移動  ホーム(神社訪問記)


inserted by FC2 system