よみ
| いなげじんじゃ
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参拝日
| 平成28年7月28日(木)
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所在地
| 川崎市川崎区宮本町7ー7 (北緯35度31分51.76秒 東経139度42分16.39秒)
地図:地理院地図
いつもNAVI
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HP
| 神奈川県神社庁 神社詳細 稲毛神社
Wikipedia:稲毛神社
当社HP
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祭神
| 武甕槌神 ( たけみかづちのかみ )
経津主神 ( ふつぬしのかみ )
菊理媛神 ( くくりひめのかみ )
伊弉諾神 ( いざなぎのかみ )
伊弉冉神 ( いざなみのかみ )
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由緒
| 郷社・別表神社
新編武蔵国風土記稿巻之七十一の堀之内村の条に次のやうに載ってゐる。( )内は割注部分。
山王社(村ノ坤方ニアリ。社領二十石ヲ付ラル。当社ハ当村川崎宿渡田大嶋川中嶋稲荷新田等ノ鎮守ニシテ祭神ハ伊弉諾伊弉冊尊菊理媛神経津主命武甕槌命ノ五坐を安セリ。欽明天皇ノ御宇当社ニ鎮座シテ古ハ武甕槌ノ神社ト称セシニイツノ頃ニカ山王権現ノ社ト改号セリト云。サレバ伊弉諾尊以下四坐ノ神ハ後配祀セルニヤ。又川崎宿宗三寺ノ伝記ニハ源頼朝ノ代ニ佐々木四郎高綱奉行シテ建立セリト云古棟札ノ存スルモノアリ、其文ニ東関国ノ武陽橘樹郡稲毛領庄川崎領堀之内村維持慶長十陸暦大才施主鈴木石見能幸三冬仲下幹五日開眼供養トアリ、又元禄八年宮内左衛門敦信が修理ヲ加ヘシトキノ棟札アリ、其文ハ略セリ。例祭ハ毎年正月三日流鏑馬ノ式ヲ行ヒ六月十五日御輿ヲ出シテ鎮守トスル処ノ村々ヲスキ渡田村ノ旅所へ渡ス。十二月二十七日ニハ社内ニテ市ヲ立テ上人等ツドヘリ。本社ハ二間ニ一軒半、弊殿一間半ニ二間半、拝殿五間半ニ二間半、マヘニ弊殿ニツゝキテ作レリ。社前ニ石鳥居を立。イヅレモ南ニ向フ。) 神楽堂(本社ニ向テ右ニアリ三間ニ二間) 末社天神社(本社ニ向テ左ニアリ) 熊野三社(是モ同ク左ニアリ九尺ニ三尺) 疱瘡神社(同ク左ニアリ。モト御代官ヲ勤メシ田中休愚右衛門ノ子孫吉蔵近年修理ヲ加ヘシト云) 猿田彦社(本社ノ背後ニアリ) 御霊社(是モ同シ) 弁天社(社内ヘノ入口ニアリ九尺ニ二間) 弁天社(本社ヲ隔テテ後ニアリ、二間四方文化元年川崎宿ノ百姓ドモ建立セリト云) 神主鈴木圭馬(社地ニ住ス、先祖ハ紀州熊野ヨリ出シモノニテイツノ頃ニカコノ地ニウツリ住セリ、天文元年三月朔日鈴木重種ガシルセシ鈴木家ノ系図ノ由来ノ書アリ、ソノコトカラハ取ルベキモノナケレド古キ家ナルコトハ是ニテモシラル、世々神職ヲ司ル吉田家ノ配下ナリ、今社領二付シ水帳ニ堀之内村山王領合テ二十二石一斗八升余天正二十年八月七日トシルシアレバ慶長ノ前社領アリシコトハ知ベケレド慶長四年二月ニ至リ始テ高二十石ノ御朱印ヲタマヒシハ鈴木石見能幸トイヒシモノノ時ナルベシ。此人慶長十六年ノ棟札ニ名ミエタリ。又此家ニ禁制ノ書ヲ蔵セリ。是ハ当社ニスキシモノトハミエザレド蔵スル所ナレバココニ附セリ。)
禁制 (武蔵国稲毛郷 河崎六ケ村)
(以下略)
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川崎市による掲示物には次のやうにある。
史跡東海道川崎宿 稲毛神社
当社は明治維新まで「山王社」といわれた。鎮座地の「堀の内」は、この附近を開発し「川崎荘」とした在地武士の館跡と推定される地名であり、当社も同荘の鎮守として勧請されたものとみられる。
中世における当社の推移は定かではないが、応永11年(1401)に大般若経書写奉納の動きがあった。近世初頭、伊奈氏による備前検地をうけ、20石の朱印を安堵され、以降川崎宿の惣鎮守として、人々は事あるごとに当社へ詣で地域の精神的紐帯となった。
8月の例祭は宮座の制を残す古式なものである。
川崎市
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雑記
| 京浜急行の京急川崎駅から東南東へ0.4kmのところにある。
由緒は、当社HP他に詳しいので、風土記稿の転記に留めた。
境内社は、つぎのものがあった。名称や簡単な由緒の案内板が付されてゐる。これも当社HPに詳しい。
- 大鷲神社(江戸末期から明治初年頃に此処にまつられた)
- 子神社(須ケ原に祀られていたが森五郎作家邸内社を経て昭和三十二年此処に遷座)
- 堀田稲荷神社(川崎競馬場建設のため当地に遷座)
- 第六天神社(同前)
- 和嶋弁財天社(河崎山王社(稲荷神社)の弁天池に祀られてゐた)
- 浅間神社(元は境内の小高い築山の上に祀られてゐた)
- 佐佐木神社(佐々木四郎高綱邸内社の沙沙貴神社が宗三寺管理、当社管理を経て明治末年境内に遷座)
- 白山神社(江戸時代に末に存在)
- 川崎天満社(同前)
- 三峰神社・御嶽神社・八坂神社・大神宮・松尾神社・金刀比羅宮・福田稲荷神社
訪れた日は、例祭を数日後に控えて準備が進んでゐた。隣の公園では、昼休みを過す人がみられ、都会の中のお社らしく思へた。
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