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堰稲荷神社(神奈川県川崎市多摩区堰)

作成日 平成29年8月19日
よみ  せきいなりじんじゃ 地理院地図
参拝日  平成28年11月10日(木)
所在地  川崎市多摩区堰2-5-20 (北緯35度36分48.17秒 東経139度35分37.17秒)
 地図:地理院地図  いつもNAVI
HP等  神奈川県神社庁 神社詳細 堰稲荷神社
祭神  倉稲魂命 ( うかのみたまのみこと )
 天照大御神 ( あまてらすおおみかみ )
 木花之佐久夜毘売 ( このはなのさくやひめ )
由緒   境内の掲示には次のやうにある。
堰稲荷神社

御祭神  倉稲魂大神(うかのみたまのおおかみ)
     天照大御神(あまてらすおおみかみ)
行事
 元旦祭 一月一日
 初午祭 二月最初の午の日
 春祭(新年祭)三月第一日曜日  
 例大祭 十月体育の日連休土・日
 大祓式 十二月三十日

当社は「新編武蔵風土記稿」巻之六十一橘樹郡によれば「当村の鎮守にして例祭毎年二月初午、九月二日に神楽を奏す、稲荷の神体は(中略)女体なり、安産守護の神にして昔より今に至るまで村内に難産の者をきかず、神明の神体は(中略)立像なり」とある
宮司 金子善光

 『新編武蔵風土記稿』巻之六十一の堰村の条(1)には次のやうにある。( )内は割注部分。
稲荷神明合社 (村ノ中央ニアリ本社五尺ニ六尺拝殿三間ニ二間共ニ南ニ向フ当村ノ鎮守ニシテ例祭毎年二月初午九月八日ニ神楽ヲ奏ス勧請ノ年代ヲ伝ヘズ稲荷ノ神体ハ右ノ手ニ宝珠ヲ持左ノ手ニ劍ヲ握リ白狐ニ腰ウチカケシ木像ニテ長六寸許ノ女体ナリ安産守護ノ神ニシテ昔ヨリ今ニ至ルマデ内村ハ難産ノ者ヲキカズ他村ノ者トイヘドモカリニ当社ヲ産寸トスルトキハ又難産ノ患ナシト云神明ノ神体ハ長七寸許ノ立像ナリ龍巌寺ノ持)
雑記  南武線久地駅から北へ0.3km余の所にある。多摩川の右岸堤防までは北へ0.3km余ある。

 境内には、橘樹郡稲田村堰侐兵会による「日露戦役記念碑」(明治三十九年十月建設との年記)、堰忠魂碑建立同志会による「忠魂碑」(昭和三十三年八月十六日の年記)がある。
 忠魂碑背面には次の碑文が刻まれてゐる。(正字体が使はれてゐるが、現在通用の字体に替えて転記した。○:写真の撮り方が悪く判読出来なかった)
   碑に銘記せられたる諸士は大東亜戦争に際し
   赤誠報国の信念の下に若く尊き一命を捧げら
   れた勇士にして或は身を北辺の曠野に晒し或
   は南海に水浸く屍となりたる○○諸士の志も
   空しく敗戦の悲運に遭○悲憤の○○へ難く而
   して諸士の犠牲に因り世界人類に戦争の悲惨
   を教へられ其結果平和乃一礎石となる亦以て
   瞑す可きなり我等元軍籍にある○諸士と其の
   志を同うす唯命長らへ諸士の○○を偲ぶ時終
   戦茲に拾余年灌漑誠に深し茲に同志相図り戦
   友の英名を千載に留め永く其忠魂を慰めんと
   本碑建設を計画し忠魂碑建立同志会の結成を
   見るに至り集りたる浄財を以て多年の宿願た
   る本碑建立の目的を達成することを得たるも
   のなり           保谷正信謹書
   昭和三十三年八月十六日 堰忠魂碑建立同志会

 堰村は、明治22年(1889)登戸村他と合併して稲田村となり、稲田村は昭和13年(1938)川崎市に編入されてゐる。

 風土記稿にある龍巌寺は、当社の南100mの所にある。

写真

社号標は「堰稲荷神社」とある



鳥居の扁額

脚注
  1. 新編武蔵風土記稿 巻之六十一 堰村の条 (江戸時代後期に編纂された地誌、内務省地理局編纂の活字翻刻本(明17)を引用)
  2.  平成29年**月**日閲覧


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