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| 福澤神社 (神奈川県南足柄市怒田)
参拝日 令和3年4月28日(水)
作成日 令和3年11月21日(日) 改訂日 令和6年2月23日(金) |
ふくざわじんじゃ
| 南足柄市怒田(ぬだ) 1912 | (35度20分49.00秒 139度5分53.47秒) 地図:地理院地図(ズームレベル15) マピオン(ズームレベル15) 参拝当時の地図です。(最新の地図は所在地欄のリンク先をご覧下さい。)
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HP等
| 神奈川県神社庁 神社情報 福澤神社
| 祭神
| 天照皇大神 ( あまてらすすめおおみかみ )
| 牛頭天王 ( ごずてんのう ) 宇迦之御霊大神 ( うかのみたまのおおかみ ) 建御名方富命 ( たけみなかたとみのみこと ) 八坂戸売命 ( やさかとめのみこと ) 大山祇命 ( おおやまつみのみこと ) 市杵島姫命 ( いちきしまひめのみこと ) 底津綿津見神 ( そこつわたつみのかみ ) 応神天皇 ( おうじんてんのう ) 神功皇后 ( じんぐうこうごう ) 仲哀天皇 ( ちゅうあいてんのう ) 境内に設置の「福澤神社社殿移築完成記念」 (横書)
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神奈川県神社誌(昭和57年)には次の様に載ってゐる(2)。
新編相模国風土記稿(斑目村の条、天保12年(1841))には次の様に載ってゐる(3)。( )内は割注部分。
雑記
| 御殿場線東山北駅から南西へ1.5km、酒匂川に架かる新大口橋を渡った右岸側にある。当社から南足柄市役所へは、南へ2.9kmと少し離れてゐる。
| 鳥居をくぐって右手に碑が纏められてゐて、碑の一つに文命東堤碑がある。文命東堤は当社から下流の酒匂川の右岸堤防のこと。 文命東堤碑(写真6参照)は、実際の碑を見ると漢字仮名交り文かと思ひきや仮名と思ったのは草書で漢文だった、当然返点は無い。風土記稿(刊行本)には楷書体の漢文で返点が付されてゐてなんとなくの意味がつかめる。また、風土記稿には「文命東堤図」があり、当社(文命社)と堤等が描かれてゐる。この図では堤と当社の間に現在の様な道路は無い。 当社の北側を酒匂川が流れてゐる。宝永4年(1707)に発生した富士山の噴火(宝永噴火)による灰や砂が雨が降る度に流れ込み、川底を上げ、堤防決壊に至り平野部には大洪水を発生させた。 当社は風土記稿に六村の鎮守とある、斑目・千津島・岡野・壗下・竹松・和田河原は宝永噴火後に破堤し田中丘隅による修築までの間の酒匂川の流路になってゐた村々となってゐる。 社名の元となった福澤村は、怒田村、小市村、斑目村、千津島村、壗下村、竹松村および岡野村、和田河原村飛地が明治22年(1889)4月1日に合併して発足。その後、昭和30年(1955)4月1日、南足柄町・岡本村および北足柄村の一部(大字内山、矢倉沢)と合併し、改めて南足柄町が発足。同日福沢村廃止となった。(4) |
写 真 (拡大写真は新しいタブ又はウインドウで開きます) |
写真1 拡大 (1280×960) |
写真2 拡大 (1280×960) |
写真3 拡大 (1280×960) |
写真4 拡大 (1280×960) |
写真5 拡大 (1280×960) 拝殿脇から鳥居方向を望む |
写真6 拡大 (1280×960) 碑が纏めておかれてゐる。鳥居をくぐって右手にある。 写真の右手側から、 ・文命東堤碑 ・文命宮祠 ・文命東堤後碑 |
写真7 拡大 (1280×960) 文命堤説明図 山北町と南足柄市の間を酒匂川が流れてゐる。 宝永4年(1707)に発生した富士山の噴火による灰や砂が雨が降る度に流れ込み、川底が上昇したため洪水が起った。 ・噴火の翌年の梅雨末期に岩流瀬(がるぜ)土手・大口土手ともに決壊し平野部に流れ込んだ。 ・大口土手は翌年復旧されたが川底が上がってゐたため、聖徳元年(1714)決壊し、酒匂川は16年間にわたり東流せず南流した。 ・享保十一年(1726)田中丘隅によって大口土手は復旧され「文命堤」と名づけられた。岩流瀬土手も復旧された。 ・その二ヶ月後、下流で堤が決壊し大水害となった。 ・享保十九年(1734)岩流瀬土手・文命堤100間が流出してゐる。 |
出典・脚注
改訂記録
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