神社訪問記HP神奈川県南足柄市

福澤神社 (神奈川県南足柄市怒田)

参拝日 令和3年4月28日(水)
作成日 令和3年11月21日(日)
改訂日 令和6年2月23日(金)
 
よみ  ふくざわじんじゃ  
所在地  南足柄市怒田(ぬだ) 1912
  (35度20分49.00秒 139度5分53.47秒)
 地図:地理院地図(ズームレベル15)
    マピオン(ズームレベル15)  
地図  参拝当時の地図です。(最新の地図は所在地欄のリンク先をご覧下さい。)
地理院地図、東西 59km×南北 55km の範囲の地図です
・東西59km 南北55km
印:当社位置


地理院地図、東西 1.13km×南北 0.94km の範囲の地図です
・東西 1.13 km × 南北 0.94 km、
印:本殿の位置
HP等  神奈川県神社庁 神社情報 福澤神社
祭神  天照皇大神 ( あまてらすすめおおみかみ )
 牛頭天王 ( ごずてんのう )
 宇迦之御霊大神 ( うかのみたまのおおかみ )
 建御名方富命 ( たけみなかたとみのみこと )
 八坂戸売命 ( やさかとめのみこと )
 大山祇命 ( おおやまつみのみこと )
 市杵島姫命 ( いちきしまひめのみこと )
 底津綿津見神 ( そこつわたつみのかみ )
 応神天皇 ( おうじんてんのう )
 神功皇后 ( じんぐうこうごう )
 仲哀天皇 ( ちゅうあいてんのう )
由緒 境内に設置の「福澤神社社殿移築完成記念」 (横書)
趣旨
「福澤神社」は、明治42年(1909)に福澤村内の11神社を文命社に合祀し、文命堤内地に建立され、本年は百周年にあたる。また、文命堤は昭和41年(1966)に南足柄市文化財に指定された。
 近年福澤神社は、老朽化が進みその対策が急務となっていた。一方、神社周辺の道路は狭く周辺地区からの交通量の増加にともない県道怒田・開成・小田原線の道路拡幅整備が計画され、道路の一部が神社内にかかり、社殿及び石像物郡の移転問題が発生した。
 平成14年度(2002)に福澤神社総代会は、このような事態に対応するために「道路拡幅にともなう神社老朽化、石像物群移転、土地問題等」について検討する事を決議し、「福澤神社検討委員会」を設立し、社殿の老朽化対策の検討を始めた。
 福澤神社検討委員会は、平成14年(2002)〜平成18年度(2006)の5年間に亘ってこの問題を討議し、文化財的な価値を有する神社建築物等の老朽化対策上から神社土地及び建築物や石像物郡等の恒久的な保存に十分配慮し、損失補償等を関係者と計画的かつ重点的に検討し、道路拡幅整備計画に対する神社が執るべき方向について答申した。
 平成19年度(2007)に福澤神社総代会は、「福澤神社建設委員会」を設立し、6名が共有の社殿敷地の寄贈、境内地に存在する国有地の払い下げおよび公道の処理を行なった。公道の処理は、上怒田・斑目自治会の協力による代替処理を行なった。また、高橋俊行氏から一部私有地の寄贈等により、社殿の移築先用地が確保された。
 平成20年(2008)8月から社殿移築を開始し、平成21年(2009)3月に社殿移築工事が完成した。設計・管理・監督は中津川建設設計コンサルタントに委託した。社殿の移築工事は瀬戸建設(株)、外構工事は地元の(株)永田組・(有)石塚石材・(株)川上建設、水道工事は(有)石澤設備工業が請負った。また、御輿は(株)日本木工振興が復元した。
 境内地の北西に位置する田中丘隅(きゅうぐ)が建立した石像物郡は、市教育委員会・市文化財保護委員会・足柄史談会等の協力を得て、境内地北東側に移転した。石像物郡野調査時に文命宮祠とみられる一部が見つかり、台座石および笠石が不明のため文命西堤の文命宮を参考に台座石と笠石を復元した。

 ここに、福澤神社の社殿移築の完成により、氏子中の安寧と安全を祈願し、
福澤神社の移築に携った各位を記し、記念版を奉納する。
平成21年4月吉日  
福澤神社 建設委員会
(以下略  総総代・総代、検討委員会、建設委員会構成員の氏名が記されてゐる)

 神奈川県神社誌(昭和57年)には次の様に載ってゐる(2)
祭神   天照皇大神 牛頭天王 外十四柱
由緒沿革 長宝丙成年五月二十五日創建。文明堤守護神として崇敬を集める。明治四十三年十二月二十三日七地区社詞合併、福沢神社と改名した。

 新編相模国風土記稿(斑目村の条、天保12年(1841))には次の様に載ってゐる(3)。( )内は割注部分。
文命社 西境怒田村ノ地ニアリ。享保十一年四月文命堤修築ノ時鎮護ノ為神禹を祀ル処ナリ。時ニ官ヨリモ百金ヲ賜ヒテ祭祀ノ資用ニ充ヲル事ハ碑銘ニ詳ナリ。円石一顆(長四寸五分。黒赤色)ヲ神体トス。別当ハ千津島村宝生院兼帯セリ。当村及ヒ千津島岡野壗下竹松和田河原総テ六村ノ鎮守トス。例祭四月朔日護摩ヲ修行ス。領主ヨリ神酒ヲ奠ス。是日社頭ヨリ根又堰水門ノ辺及ヒ堤上ニ農具ヲ排列シテ鬻クヲ例トス。拝殿アリ。
ほかに、文命堤について記載があり、大口堤を修復した田中丘隅について、又、文命東堤碑について「高六尺五寸幅三尺二寸厚一尺二寸五分。銘曰」と700文字余の碑文、等が記されてゐる。
雑記  御殿場線東山北駅から南西へ1.5km、酒匂川に架かる新大口橋を渡った右岸側にある。当社から南足柄市役所へは、南へ2.9kmと少し離れてゐる。

 鳥居をくぐって右手に碑が纏められてゐて、碑の一つに文命東堤碑がある。文命東堤は当社から下流の酒匂川の右岸堤防のこと。
 文命東堤碑(写真6参照)は、実際の碑を見ると漢字仮名交り文かと思ひきや仮名と思ったのは草書で漢文だった、当然返点は無い。風土記稿(刊行本)には楷書体の漢文で返点が付されてゐてなんとなくの意味がつかめる。また、風土記稿には「文命東堤図」があり、当社(文命社)と堤等が描かれてゐる。この図では堤と当社の間に現在の様な道路は無い。

 当社の北側を酒匂川が流れてゐる。宝永4年(1707)に発生した富士山の噴火(宝永噴火)による灰や砂が雨が降る度に流れ込み、川底を上げ、堤防決壊に至り平野部には大洪水を発生させた。
 当社は風土記稿に六村の鎮守とある、斑目・千津島・岡野・壗下・竹松・和田河原は宝永噴火後に破堤し田中丘隅による修築までの間の酒匂川の流路になってゐた村々となってゐる。

 社名の元となった福澤村は、怒田村、小市村、斑目村、千津島村、壗下村、竹松村および岡野村、和田河原村飛地が明治22年(1889)4月1日に合併して発足。その後、昭和30年(1955)4月1日、南足柄町・岡本村および北足柄村の一部(大字内山、矢倉沢)と合併し、改めて南足柄町が発足。同日福沢村廃止となった。(4)

写 真  (拡大写真は新しいタブ又はウインドウで開きます)
写真1
写真1 拡大 (1280×960)

写真2
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写真3
写真3 拡大 (1280×960)

写真4
写真4 拡大 (1280×960)

写真5
写真5 拡大 (1280×960)

拝殿脇から鳥居方向を望む

写真6
写真6 拡大 (1280×960)

碑が纏めておかれてゐる。鳥居をくぐって右手にある。

写真の右手側から、
・文命東堤碑
・文命宮祠
・文命東堤後碑

写真7
写真7 拡大 (1280×960)

文命堤説明図

 山北町と南足柄市の間を酒匂川が流れてゐる。
 宝永4年(1707)に発生した富士山の噴火による灰や砂が雨が降る度に流れ込み、川底が上昇したため洪水が起った。
・噴火の翌年の梅雨末期に岩流瀬(がるぜ)土手・大口土手ともに決壊し平野部に流れ込んだ。
・大口土手は翌年復旧されたが川底が上がってゐたため、聖徳元年(1714)決壊し、酒匂川は16年間にわたり東流せず南流した。
・享保十一年(1726)田中丘隅によって大口土手は復旧され「文命堤」と名づけられた。岩流瀬土手も復旧された。
・その二ヶ月後、下流で堤が決壊し大水害となった。
・享保十九年(1734)岩流瀬土手・文命堤100間が流出してゐる。


出典・脚注
  1. 令和3年11月14日閲覧 神奈川県神社庁 神社詳細 福澤神社(令和6年2月23日追記;令和5年7月にwebページ一新のため、ページ不存在。現ページには2900余字の由緒記載がある)
  2. 『神奈川県神社誌』神奈川県神社庁編 昭和57年(1982) p.375
  3. 『新編相模国風土記稿』 巻之十九 斑目村の条 (同書は天保12年(1841)完成。鳥跡蟹行社刊(明17-21)の活字翻刻本を引用。漢字は現在当用の字体に置換へた)
  4. 令和3年11月14日閲覧 ウィキペディア 福沢村 (神奈川県)

改訂記録
  • 令和06.02.23 ページ内の配置変更(スマホでの閲覧に配慮)。神社庁web神社情報のリンク修正。白地図の誤記修正(誤:東西290km×南北270km 正:東西59km 南北55km)

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