よみ
| いさいだはちまんじんじゃ
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所在地
| 小田原市扇町3-4-1 (北緯35度16分7.5秒 東経139度9分28.3秒)
国土地理院ウオッちず
いつもNAVI
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HP
| 神奈川県神社庁 神社詳細 八幡神社
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祭神
| 誉田別尊 ( ほむだわけのみこと )
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由緒
| 社頭の掲示板によると、
井細田八幡神社
小田原市正扇町鎮座
御祭神 譽 田 別 命
例祭日 九月十九日を含む直前日曜日、又は振替休日(除 日)
由緒 当社創立は天正年間
名主役星野治郎右衛門の勧請に起り爾来井細田の鎮守として村民の信仰篤く明治六年足柄県において
村社に指定され大正四年神饌幣帛共進社に指定せられ現在に至る
境内神社
稲荷社 祭神 宇迦之命神
山神社 大山祇命
神明社 伊弉諾尊
天神社 菅原道真
当社の森は昭和五十年小田原市保存樹林に指定される
昭和六十年四月吉日建之
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拝殿内にはご神体について記された掲示がある。
鎮守八幡社
祭神 誉田別命(応仁天皇)
御神体 僧形八幡座像
祭日 九月十八、十九日
沿革
当井細田の鎮守八幡社は、天正年中(自1573至1590)に村民次郎右衛門らの勧請によって此の地に創建された。
御祭神は応神天皇にましましその御尊像は剃髪形の神像、所謂僧形八幡座像である。
僧形八幡とは、本地垂迹の思想、神仏融合の精神が生んだ神像で、神でありながら円頂衲衣の僧形という、
一般には珍しいお姿である。
同形の神像では、京都の教王護國寺、奈良の薬師寺、同東大寺(画像)等は國宝として、著名であるが、神奈川県下では
横浜市金澤区の称名寺に安置されている坐像が重要文化財として有名である。
当八幡社は、創建以来約三百八十有余年此の井細田村の総鎮守として村民の尊崇をあつめ村内融合の基をなして
明治に至った。しかるにその御維新に際し神仏分離の思想が国内に風靡するや当社の御神体も僧形にましますところから
この厄災に遭遇され、以来約一世紀の間社外に安置され今日に至った。
この間草創の御神体は特志家のてによって不遇をかこち乍らも幸い事なきを得立派に保存されて来たが、
一昨年明治百年を期して再び本来の社殿へ復帰すべき声が上がりここに昭和四十五年二月廿五日御神体御遷宮の運びと
なったものである。
八幡式神尊影遷座由来
また当社には、八幡武神の画像一幅を保存している。この画像は当村の旧家狩野窪謙吉方に古来より伝承してきたが
その裔元治郎氏に及び名跡が途絶えた。元治郎氏の四女よし女(板橋島野氏)は思うところあって画像を一時当村正蓮寺に
預けたが、さらに昭和三十二年九月十八日鎮守八幡の祭典を期して当社へ奉納した。
以上が八幡武神御尊像遷宮の由縁である
昭和四十五年庚戌三月吉祥
氏子総代
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参拝日
| 平成24年3月16日(日)
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雑記
| 大雄山線井細田駅の東50mにある。西からながれてきた久野川は、当社の南西100mにも成らないところを
南西へ向きを変へてゐる。かつては、曲がりくねった川だったらしい。
関東大震災で社殿は倒潰した。拝殿内には大正十四年八月に上棟式が行はれた写真が掲げられてゐる。昭和五十六年に屋根の修復。
稲荷社の鳥居には「明治十二年二月初代大川茂助建設ス然ルニ大正十二年九月一日関東大震災ノ為倒壊ス依テ大正十四年九月
二代目大川彦次郎再建設スルモノ也」と刻まれてゐる。
境内社は、社頭掲示板にある四社の他に第六天社がある。稲荷社以外は、小さな石祠だが、同じ形のものはなく修理された形跡
も窺へる。古くに造られたものなのだらう。
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