よみ
| だいいなりじんじゃ
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所在地
| 小田原市城山1-22-1 (北緯35度15分34.7秒 東経139度9分16.4秒)
地図:国土地理院ウオッちず
いつもNAVI
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HP
| 大稲荷神社HP
神奈川県神社庁 神社詳細 大稲荷神社
Wikpedia
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祭神
| 田中大神 ( たなかのおおかみ )
宇迦之御魂大神 ( うかのみたまのおおかみ )
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由緒
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「大稲荷神社の由来伝記によれば、小田原城、北条時代に、修験者が旧竹ノ花地区内に修験堂を建立した。武田家の臣曲渕氏が主家滅亡後、
徳川家に随身。この地を釆地として賜り修験堂に稲荷大明神をおまつりしたことに始まり」、
「宝永三年五月(西暦一七〇六年)、現在地の谷津山に御社殿を造営」されたといふ。
錦織神社の由来
「新編相模風土記」によれば錦織明神社、古験者火定せしを祀り西郡明神と唱ふ。慶安年中、領主の命により、今の字に改しと云う。
例祭十一月十七日。神体は修験者の形なり。町内持。とあり、もとは須藤町の「かどや」の所にあったものを大正三年に境内に遷座した。
寛永十年(西暦1633年)正月二十一日の大地震により小田原城は大破領内の足柄上下は特に被害甚大であった。小田原藩主
稲葉美濃守は領内の復興のため過酷なる年貢を取り立てた。
農民は塗炭の苦しみに喘ぎ暴動を起しかねない状態になった。この時に上郡関本村名主下田隼人は一家の全滅を覚悟の上で年貢の
軽減を藩主に直訴をし万治三年(西暦1660年)十二月二十三日処刑されたが隼人の一年は見事に達成された。
生前隼人は城下に出向いた時には須藤町の郷宿を定宿としていた為須藤町の人々と自然親密な関係にあった。そこで町内の人々は
共に西郡の為に身を投じた隼人の義侠を徳としてこの社に密に併せ祀ってきたものである。
御祭神 錦織大神
下田隼人命
例祭 十一月十七日
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愛宕神社の由来
「新編相模風土記」によれば旧谷津村の守護神であった。天平宝字年間(西暦757年)、夢中道人の創建で愛宕山(小田原駅西口にある山)
の山上にあった。本地勝軍地蔵は夢中道人の自作と云われている。元暦中、堅雅再建。暦応二年(西暦1339年)足利尊氏建立。現在の社殿は
本殿のみが大正末期遷座されているが江戸に幕府が開かれた時に、拝・幣殿を江戸の愛宕山に移築してしまい本殿のみが残されたものである
と伝えられている。
御手洗石には講中江戸赤坂田町五丁目と刻まれている。
御祭神 火之迦具土神(ほのかぐつちのかみ)
例祭 三月十九日
奉納 谷津氏子会
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小田原駅西口に鎮座し谷津地区の守護神だったが、小田原駅開設計画にともなひ、大正九年に大稲荷神社境内に遷座された。
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参拝日
| 平成24年11月25日(日)
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雑記
| 小田原駅の北400mほどの所にある。
大稲荷神社に祀られてゐる田中大神は伏見稲荷神社で祭られてゐる稲荷神のひとつ
小田原城址公園内で自転車を借りて六社を巡った。十二時過ぎから十六時前の三時間すこししか時間がとれなかった。全般にいへえるが、
朝が遅いのが問題。あと1時間は早く家を出ないといけないな。
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