よみ
| こやはたはちまん じんじゃ
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参拝日
| 平成26年9月19日(金)
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所在地
| 小田原市小八幡3-1-1 (北緯35度16分34.36秒 東経139度11分58.44秒)
地図:地理院地図
いつもNAVI
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HP
| 神奈川県神社庁 神社詳細 八幡神社
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祭神
| 応神天皇 ( おうじんてんのう )
仁徳天皇 ( にんとくてんのう )
神功皇后 ( じんぐうこうごう )
佐田彦命 ( さたひこのみこと )
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由緒
| 境内の掲示には次のやうにあった。
小八幡八幡神社由来
一、位置
| 小田原市小八幡三丁目一番一号
| 二、祭神
| 応神天皇(誉田別命=ほんだわけのみこと)
仁徳天皇(応神天皇の第二子=おおささぎのみこと)
神功皇后(仲哀天皇の后=おおたらしひめのみこと)
のご神体三柱を祀る
九州宇佐八幡を総社とした、三神一体の八幡信仰に属する八幡神社の一社
合祀…猿田彦命(さるたひこのみこと)
| 三、由緒
| 当八幡神社の建立は定かではないが、鎌倉時代以前からその前身はあったのではないかと、和本、公文書などから推定される。
「延喜式」(九百二十七年に編集作成された律令の施行細則によれば、平安時代の官街道には駅制度が敷かれ、相模國の東海道
(足柄街道)には各郡毎に駅家、駅馬が設けられ六箇所の駅集落があった。この中の「小総駅(おぶさのうまや)」とは「大和物語」
では海辺に近い場所だったと、また、「皇國地誌」では小八幡の地ならんとあれど此村に其の伝えなし。
「和名抄」(倭名類聚抄)でいう駅家とは接村の酒匂村なうべしと─
何れにしても其の「小総駅」が地元だったとすれば、部落の鎮守様として其の頃(平安時代後期)、建立されたとする推定も
可能なのではないだろうか。
「皇國地誌」(明治十八年十月二十五日 県令沖守固署名)によれば、往古の当地は高田郷に属し、成田の荘なり。
近在には丘陵が散在せしにより八重岡村(やえおかむら)と称せしが、後漸々開墾し田畑となせしより、小八幡村と改むるといえり。
こは鎮守八幡神社に拠れるならん。と
また神社については此の社は式外村社で面積三百十五坪、小八幡字東畑九十番地に鎮座し、祭神は誉田別命を奉祀す。
神体は木の立像なり。勧請歳月伝わらず。例祭は七月三十一日(旧六月晦日)神木は古松。周り一丈六尺、他に老楠三株、三、四百年の物を見ゆ。
と書かれている。(現在の例祭四月十日は農繁期の関係で変更された。)
往古の神社は部落(小八幡村)の中心地で、境内は地盤、地質良く楠木の森となり、江戸時代には伐採し商品として、船で送り出したともいわれている。
小八幡八幡神社の御輿は古くから担がれ、足柄上郡中井町の五所宮八幡神社の記録によれば、毎年六月晦日の祭事には同社を宗社とする
領内の小八幡、赤田、北村、堀の四箇所八幡と地元雑色村の子神社(五所八幡の本宮)など近郷の御輿が集まり、農市がたつほどの賑やかさを見せ、
慶長十七年(千六百十二年)まで小八幡御輿が参加していたとの記録が残されている。
当八幡神社は元中七年(千三百九十年)より慶応四年(千八百六十八年)三月の神佛分離令が、発布されるまでの約四百八十年間、八幡山神明院三宝寺が
別当寺として管理していた。
| 四、例祭
| 毎年四月十五日
| 五、氏子数
明治 九年 九十六戸
明治十八年 百三十五戸(人口男─三百八十人 女─三百四十七人
昭和 七年 三百七十二戸
平成 三年 千四百四十七戸
| 六、社殿等
| 本殿 間口…三間 奥行き…二間 の八幡造り
弊殿 間口…一軒半 奥行き…一間
鳥居 巾 …八尺 高さ …十二尺の八幡鳥居
| 七、境内
| 千六百二十六坪
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平成三年四月吉日記す
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雑記
| 東海道線国府津駅から西南西へ1.3kmのところにある。
境内に稲荷社がある。
平成八年四月建立の境内整備完成祈念碑があり、道路拡幅のため社地の一部を提供する事となり、保証金を使って全般の整備を行ったとのこと。
道祖神が境内に集められてゐるが、碑によると、旧小八幡村内の道路、辻等に安置信仰されてゐた九基の道祖神を道路事情等の変動により
昭和五十年六月、境内に移転奉斎したものとのこと。現位置と旧安置位置が刻まれてゐる。
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