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大美和神社(神奈川県小田原市江之浦)

作成日 平成27年11月3日
よみ  おおみわじんじゃ 地理院地図
参拝日  平成26年10月18日(土)
所在地  小田原市江之浦312 (北緯35度11分26.31秒 東経139度7分52.98秒)
 地図:地理院地図  いつもNAVI
HP  神奈川県神社庁 神社詳細 大美和神社
祭神  伊弉冊命 ( いざなみのみこと )
 大物主命 ( おおものぬしのみこと )
由緒  案内板にはつぎの様にある(横書き)。

大美和神社
 祭神は小彦名命と大物主命であり、寛文十一年(1671)八月十五日の創建である。 以前は蔵王神社といわれていたが、第二次大戦中に大美和神社と改称された。
 例大祭は七月十五日であったが、近年七月の第三日曜日となった。毎年、この日鹿島踊りが奉納されている。
 片浦地方は、通称根府川石と呼ばれる石材の産地で、石船(石材運搬船)に関わる人達も多いことから、 海や船、航海に関係のある鹿島信仰が定着し、鹿島踊りも伝えられたものであろう。しかも鹿島踊りは、村に入ってくる悪疫も退散させる 効果のある踊り故、村の若い衆によって伝承されてきた。
 踊りは成年男子によってのみおこなわれるのが特徴であるが、近年後継者育成を図るため子供も参加している。
 鹿島踊りは二十五人が定数で、五行五列の方舞と円舞の組合せで踊る珍しい踊りである。
 歌上げは中老達の役で、踊りの主役である太鼓役一人と鉦役二人、黄金柄杓役一人、日形役・月形役各一人が中心となって、 略式の浴衣姿で踊るが、古い伝統を持つだけに踊りも正調である。

震災記念碑があり、次の様に刻まれてゐる。(縦書き)
大震災記念
(中略)
大正十二年九月一日午前十一時五十分突如大振動起リ家屋倒潰火災起リ爲ニ人畜多数死傷シ 村民一同ハ字松寄ノ高キ地點ニ集團シテ十数日間共同自炊ヲナシ漸ク假道路ヲ作リ小舟ヲ浮ベテ小田原ヨリ物資ノ供給ヲ受ケ糊口ヲ凌ギタリ 依テ之レヲ記ス
(肩書(區長・議員・収入役・組親・震災救難委員・住職)と18名の氏名 転記略)
 昭和三年七月十五日 區長山室千代吉建之

別の記念碑には次のやうにある。(縦書き)
記念碑
大正十二年九月一日午前十一時五十八分ずしんト云フ一大音響ト共ニ前古未ダ嘗テ
無比ノ大震災俄然トシテ関東地方ノ悲惨ヲ演ジ實ニ名状スベカラズ殊ニ本村ハ震
源地ニ最モ近ク被害激甚ニシテ本部落ノ住家八十二戸中全潰五十四戸全焼四戸墜落
一戸流出三戸半潰二十一戸寺一戸全潰観音堂一戸全潰唯社一戸残ルノミカ七名ノ横
死者ヲ出シ資源タル柑橘畑山林等満目ノ荒野ト化シ飲料水ノ欠乏ニ苦シミ其惨禍ノ
跡實ニ直視スル能ハズ人生最大ノ痛恨事ニシテ之ガ救急奔走ノ際容易ニ復舊ノ途ヲ
講ズルコト極メテ難治ナリ故ニ吾等晝夜協議ヲ続ケ漸ク援ヲ其筋ニ請フコト幾度本
縣産業技師矢儀平一氏ノ實地踏査ノ結果震災復舊耕地整理組合組織ヲ最善ノ方策ト
シ特別ノ助成ニヨリ農商務省技手君塚貢永山正雄両氏ニ測量設計ヲ委嘱シ田畑山林
其他総面積七十六町八畝二十一歩関係者七十七名大正十三年九月廿日設計終了同廿
二日申請同十月廿三日付ヲ以テ設立認可ヲ得直ニ同廿五日工ヲ起シ晴雨ニ拘ハラズ
毎日二百五十人ヲ督シ総工費十二万九千七百十七圓ノ巨額ヲ投シ畦畔貯水槽道路工
事等ヲ築造シ一部落ノ事業トシテハ決シテ容易ナラザリシナリ然ルニ組合一同初メ
テ蘇生ノ思ヲナイタルハ實ニ組合員ノ奮闘努力ト工事請負者諸氏ノ精勵ト相俟ツテ
縣営ノ指導監督其宜敷ヲ得タルノ賜ト謂フベシ之ガ復舊工事費ニ對シ縣補助金一万
百九十五圓開墾助成交付金一万四千九百二十八圓三十八錢低利資金三万九千圓ニシ
テ其殘額ハ各自醵出シテ本事業ノ完成ヲナシ尚開墾地移住家屋建築奨勵数四十戸實
ニ其額八千圓ニ及ビ之等ノ恩恵ニ浴スルヲ得ルハ當事者ノ喜ビ何物カ之ニ加へン爾
来苦節五年御大典記念事業トシテ漸ク復舊ス仍て茲ニ梗概ヲ録シテ此ノ碑ヲ建テ以
テ後世ニ告グ
 昭和五年八月三十一日
                    神奈川縣農林技手 黒田杢一織ス
                    同        同  人謹書
                    地方技師正五位勲四等草柳正治氏題額
碑で使はれてゐる漢字はなるべく碑の字体を使用したが当用漢字と近いものは当用漢字を使用した。
(参考)字体の大きく違ふ、正字と当用漢字は次の通り
點:点 團:団 區:区 實:実 舊:旧 晝:昼 縣:県 圓:円 勵:励  對:対 錢:銭 當:当 
雑記  東海道線早川駅から


本殿

鳥居脇の社号標(昭和十六年奉納)と向拝の扁額

山の神(境内社)


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