神社訪問記HP神奈川県大井町

篠窪三嶋神社 (神奈川県大井町篠窪)

参拝日 令和3年4月28日(水)
作成日 令和3年11月21日(日)
改訂日 令和6年2月22日(木)
 
よみ  しのくぼ みしまじんじゃ  
所在地  大井町篠窪908
  (35度20分58.28秒 139度10分1.34秒)
 地図:地理院地図(ズームレベル15)
    マピオン(ズームレベル15)  
地図  参拝当時の地図です。(最新の地図は所在地欄のリンク先をご覧下さい。)
地理院地図、東西 59km×南北 55km の範囲の地図です
・東西59km 南北55km
印:当社位置


地理院地図、東西 1.13km×南北 0.94km の範囲の地図です
・東西 1.13 km × 南北 0.94 km、
印:本殿の位置
HP等  神奈川県神社庁 神社情報 三嶋社
祭神  事代主命 ( ことしろぬしのみこと )
 誉田別命 ( ほむだわけのみこと )
 大山祇命 ( おおやまつみのみこと )
 武内宿禰命 ( たけしうちのすくねのみこと )
由緒  神奈川県神社誌には次の様に載ってゐる(2)
祭神   事代主命 武内宿祢命 誉田別命 厳島姫命 大山昨命 由結沿革 創立年月不詳。往古は字宮地に在り、根渡神社と祢し、武田宿祢命を祭る。天文四辛末年(一五三五)当社へ移転建立、元和二年(一六一六)十一月三島神社、八幡社を当社へ合殿。開基は当村小島甚左衛門、当郡神山村源之亟である。旧来一社にして三島社及八幡社、根渡神社の三号あり、明治六年氏子協議により三島社の社号とし、同月村社となる。同十一年七月村内江ノ島社祭神巌島姫、日枝社祭神大山昨命の二社を当社へ合併願済。

 新編相模国風土記稿(天保12年(1841))には次の様に載ってゐる(3)。( )内は、割注部分。漢文の返点は略した。
根渡 三島 八幡合社 当村及神山村ノ鎮守ニシテ両村ノ持ナリ。根渡ハ祭神詳ナラズ。或ハ工匠ノ神ニテ思兼命ヲ祭レリトモ云。古ハ祀ル所根渡一座ニテ三島ハ初上大井村ノ同社ヲ模シテ村内ニ勧請シ別社タリシト云。故ニ今猶三島ノ免田(一段廿八歩)別ニ村内ニアリ。今社蔵スル所元和ニ年十一月再建ノ棟札二枚アリ。是全ク二神各殿ノ修造ナリ。(一曰 奉造立相州足柄上郡篠窪郷根渡神御○殿所 御代官中川勘助平安孫 本願二郎右衛門 禰宜善左衛門云々 一曰 奉造立相州足上郡篠窪三島大明神御○殿一宇所 御代官中川勘助平安孫 本願北村源左衛門 禰宜善左衛門云々) 寛永十三年再建ノ棟札モ尚然リ。八幡ハ初上山村ニアリシト云。今猶其免田(二段一歩)彼村内ニ遺レリ。此二村ヲ当社ニ合祀セシ後ハオノヅカラ根渡ノ神ハ沉淪シ元禄十四年十二月合社修理ノ棟札ニハ三嶋八幡ノ二神号ノミヲ記セリ。(今掲クル所華表ノ扁額モ二神号ノミヲ表セリ) 後又合殿ニ諏訪天神ヲ祀ル。例祭九月廿九日。童相撲(十二番)興行シ勝劣ニヨラズ供餅ヲ(牛ノ舌餅ト云)割与ス。其式古例ヲ守リ村民(七人)及ビ神山村ノ民(三人)凡テ十人順次ヲ逐テ拝殿ニ着座シ神酒ノ濁醪ヲ飲移ス。其座次古ヨリ甚厳ナリ。今里正(甚左衛門ト称ス)ガ所蔵ニ天文四年座次ノ掟ヲ示セシ古書アリ(曰 篠窪百姓中座敷之事。一番二郎衛門尉。二番三郎衛門尉。三番彦左衛門尉。四番源六。五番二郎左衛門。右背此旨子細中候者座敷ヲ可立者也。仍如件。天文四年丙申九月廿九日。花押。按ズルニ此花押ハ当時ノ地頭篠窪氏ニヤ。詳ナラズ。今此座ニ着スル者ヲ座持ト云。此文書ニ載セタル二カ右衛門ハ即甚左衛門ガ祖ナリ。彼ハ小島ヲ氏トシ、当村草分ノ家ナリト云。又彦左衛門ト云ハ村民彦左衛門。源六ハ山神村ノ民徳右衛門其裔ト云フ。
 神楽殿
 神木 杉二株(囲一ハ五尺五寸。一ハ五尺) 此余老杉八株(囲六尺ヨリ一丈ニ尺ニ及フ)アリ。又椎ノ古樹十六株(囲六尺ヨリ一丈八尺ニ及ブ)列立ス。故ニ社地ヲ斥テ椎ノ木森と唱フ。
神明社 普賢院持
弁天社 村民持。下同。
山王社
  註 沉:「沈」の異体字   華表:鳥居の事

 座の制度について、大井町史(平成11年)(4)によると
明治時代になると、新座持・村総代・官世話人なども宮座に加わった。明治時代末からは座の意識がしだいに薄れて、現在では座の制度はなくなり、宮世話人は四年ごとに選ばれている。
 と云ふ。
雑記  御殿場線相模金子駅から北東へ2.3kmのところにある。

 手水石は、「天保十三年寅年 六月吉日」(1842年)の年記がある。

 当地、篠窪の明治初め以降の変遷は次の様(5)
・明治22年(1889年)4月1日 - 町村制の施行により、栃窪村、篠窪村、柳村、高尾村、赤田村および大住郡渋沢村飛地が合併して発足。山田村との町村組合が発足し、組合役場を大字篠窪に設置。
・昭和21年(1946年)11月3日 - 山田村と合併して相和村が発足。同日上中村廃止。
・昭和26年(1951年)6月20日 - 相和村の一部(大字栃窪)が中郡西秦野村に編入。
・昭和31年(1956年)4月1日 - 金田村および曽我村の一部(大字西大井、上大井)と合併して大井町が発足。同日相和村廃止。

写 真  (拡大写真は新しいタブ又はウインドウで開きます)
写真1
写真1 拡大 (1280×960)

社頭

鳥居の扁額は「三嶋神社」。柱には「奉納 昭和五十二年四月 氏名」とある。

写真右側の歩道上には「かながわの名木100選」の碑があり、写真左端には名木の幹の部分が写ってゐる(写真8参照)。

写真2
写真2 拡大 (1280×960)

灯籠と社殿

社殿に向って右手に石碑群がある(灯籠で半ば隠れてゐる)。また左側の舞殿との間に境内社がある(灯籠で殆どが隠れてゐる)。

写真3
写真3 拡大 (1280×960)

写真4
写真4 拡大 (1280×960)

写真5
写真5 拡大 (1280×960)

拝殿内

御本殿部分の拡大写真 (1280×960)

写真6
写真6 拡大 (1280×732)

境内社

なかなかに立派な木造の祠が置かれてゐる。社名不詳。

写真7
写真7 拡大 (1280×960)

境内の石造群。大井町webには次の説明がある(6)。(脱字などは補った)
三嶋社の境内に道標があります。これは三嶋神社西側約100mの所に富士見塚があり、この場所はかつては、北に大山道、南は小田原道、飯泉(いいずみ)観音の道、西は富士道の分岐点でした。富士見塚の付近には、庚申塔の道標や后土神(こうどしん)の道標や観音像の道標、出羽湯殿山信仰の寛文年間の碑や江戸時代の名僧徳本行者の碑などがありましたが、明治の始めに三嶋社や地福寺の境内に移されました。


写真8
写真8 拡大 (1280×960)

かながわの名木100選の碑があり次の様に記されてゐる(横書)
かながわの名木100選      昭和59年12月○○
篠窪の椎の木森のシイ
和名:スダシイ(ブナ科)
 幹は斜めに伸びて枝葉は矢倉沢往還をいっぱいにおおい、幹にはツタがからみついて、古木の観をもりあげている。
 森全体が大井町の天然記念物に指定されている。
 樹高 15メートル  胸高周囲 5.9メートル
 樹齢 約500年(推定)
参考:日本樹木医 神奈川県支部では樹木診断がなされてゐる かながわ名木100選の060番(7)

 当社の森は町指定天然記念物となってゐる。その旨の掲示や、大井町史から引用した群落断面図が掲示されてゐる。町のwebには簡易な案内(8)もある。


出典・脚注
  1. 令和3年11月21日閲覧 神奈川県神社庁 神社詳細 三嶋社
  2. 『神奈川県神社誌』神奈川県神社庁編 昭和57年(1982) p.411
  3. 『新編相模国風土記稿』 巻之十五 篠窪村の条 (同書は天保12年(1841)完成。鳥跡蟹行社刊(明17-21)の活字翻刻本を引用。漢字は現在当用の字体に置換へた)
  4. 『大井町史 別編 民俗』平成十一年 p.182
  5. 令和3年11月21日閲覧 大井町 大井町観光サイト たずねてみませんか大井町の文化財 9.矢倉沢往還篠窪付近
  6. 令和3年11月20日閲覧 Wikipedia 上中村相和村
  7. 令和3年11月20日閲覧 一般社団法人 日本樹木医会 神奈川県支部では樹木診断がなされてゐる かながわ名木100選060番
  8. 令和3年11月21日閲覧 大井町 大井町観光サイト たずねてみませんか大井町の文化財 内の 8.自然林の様子を伝える椎の木森

改訂記録
  • 令和06.02.22 ページ内の配置変更(スマホでの閲覧に配慮)。神社庁web神社情報のリンク修正。白地図の誤記修正(誤:東西290km×南北270km 正:東西59km 南北55km)

文頭へ移動  ホーム(神社訪問記)


inserted by FC2 system