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高来神社(神奈川県大磯町高麗)

作成日 平成29年11月18日
よみ  たかく じんじゃ 地理院地図
参拝日  平成29年5月19日(金)
所在地  大磯町高麗2-9-47 (北緯35度19分19.73秒 東経139度19分28.22秒)
 地図:地理院地図  いつもNAVI
HP等  神奈川県神社庁 神社詳細 高来神社  Wikipedia:高来神社
祭神  由緒欄参照
由緒  旧郷社
 境内の案内板には次のやうにある。
高来神社(高麗寺)略縁起

古代 大磯の東に聳える高麗山(こまやま)は昔より神宿る山として住民から信仰されて来ました。
創始 神功皇后が三韓を討った後に、高麗山の上に神皇産霊神(かみむすびのかみ)・高麗大神和光(こまおおかみわこう)(高麗権現)を遷し祀り天下の平和をお祈りされました。後に瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)・応神天皇・神功皇后が併せ祀られました。この高麗権現は箱根神社並びに伊豆山神社に遷祀されております。
若光渡来 天智天皇七年(668)高句麗国が滅亡するや高句麗の王族若光は大磯の高麗(こま)に渡来して大陸文化を伝えました。霊亀二年(716)大磯を初めて各地に渡来した高句麗人が若光(じゃくこう)を郡長として武蔵国高麗郡(むさしのくに こまぐん)に移され開発を命ぜられました。
高麗寺の創建 養老元年(717)僧行基がこの地を訪ね大磯の照ケ崎(てるがさき)の海中よりお上りになった千手観音菩薩を拝し本地仏と定められ高麗寺を創建されました。かくして神仏習合の聖地となり鶏足山(けいそくさん)高麗寺を別当寺とし長く信仰されて来ました。
中世 鎌倉時代は幕府の厚い信仰を受け相模の大寺社に列せられ境内に二十四僧坊が置かれましたが、室町時代には高麗山は要害の地として重なる戦いの被害を受け白山社・毘沙門三重塔など多くの伽藍、寺宝が焼失されました。
江戸期 天正十九年(1591)徳川幕府から御朱印地として寺領百石と山林を与えられ、寛永十一年(1634)東照権現(徳川家康)が勧請されました。そして天海僧上(てんかいそうじょう)より寺十三条掟書(おきてしょ)を授りました。参勤交代の殿様もお駕籠から降りて高麗寺の大鳥居の前で深々とお辞儀をして毛槍を下げて寺領内を静かに通り、領民の土下座はなかったと伝えられます。
近代 明治の世となり神仏分離の政策により高麗寺は廃寺となり、明治三十年高来神社と改称されました。現在旧観音本堂(下社)に遷座されています。千手観音菩薩を始めとする寺物は現慶覚院(けいかくいん)に安置されました。高来神社は古来より高麗(こま)、大磯の鎮守神として地域住民の平和と安全を御守護されています。
祭神 神皇産霊神、瓊瓊杵尊、応神天皇、神功皇后
祭礼 春期例祭 家康の命日、山神輿の渡御外(大磯町無形民俗文化財 四月)
   夏期例大祭 御船祭 照ケ崎海岸の神事斉行(大磯町無形民俗文化財 七月)
高麗寺領境内見取図(略)
写真 5枚略( (1)高麗の山神輿(急峻な男坂を高麗山頂上の上宮まで渡御)、(2)御船祭(7月)、(3)男神像 高さ102.7cm(弘安五年頃の制作)、(4)御神像 高さ86.7cm(弘安五年頃の制作)、(5)高麗権現社の面影をとどめる上宮(昭和55年に撤去される)昭和49年撮影 )
 新編相模国風土記稿(1)には、高麗権現社として、「高麗寺山ノ頂ニアリ、又左右ノ峰ニ白山毘沙門ヲ勧請ス。以上合テ高麗三社権現ト号スト云フ。」と書きはじめ、「高麗寺境内図」を含め6頁(明治の翻刻本)にわたって詳述されてゐる。
雑記  東海道線平塚駅から西南西へ2.2km、高麗山の麓にある。大磯駅からは北東へ1.5km。

 高麗山の山頂には社があると思つてゐた。国土地理院の地図(電子国土Web)を見ると神社記号があるから。高来神社参拝に当つて、高麗山に登り上宮にもお参りするつもりで調べてゐた。なかなか判然としなかったが、今はお社は無い、と判断して一日の計画を立てた。境内の縁起掲示の「現在旧観音本堂(下社)に遷座され」「上宮(昭和55年に撤去される)」をみて得心した。
 境内社がいくつかあつた。相模国風土記稿には、白山社、平嘉久社、権現社(伊豆箱根の両所を祭る)、稲荷、道祖神の名がある。参拝時には、平嘉久社・神明宮・竜神宮・杉本稲荷社・不詳一社があった。
 平嘉久社への道に、倒れた石鳥居の柱があり、「奉寄進華表一基元文五年」と読める。境内の縁起掲示見取図の二ノ鳥居跡だらうか。同社の傍らには、平成十二年四月吉日の日付のある平嘉久社修復記念板がある。

 若光を祭神としてゐる神社には、日高市の高麗神社、伊勢原市の白髯神社がある。

「慶覚院は、元高麗寺の地蔵堂であったもので、ここには地蔵堂の本尊・地蔵菩薩があり、これは虎御前の持尊物で御腹籠り(はらこもり)には曽我十郎の自尊仏が胎内に納められている。高麗山左峰にあった三重塔に祀られていた毘沙門天像、右峰にあった白山社に祀られていた白山権現像、その他不動尊像、マリア観音木像、慈恵大師木像、天海大僧正木像、伊藤博文、大隈重信両公先祖代々位牌など本堂に安置されている」(2)、又、慶覚院は、高麗寺の末寺で、照ケ崎海岸に近い南下町に創建され、明治23年の大火で焼失。その後に地蔵堂に遷った、といふ。
 照ケ崎は、当社から南南西へ2.0km、大磯駅からは南南東へ0.7km。景勝地でもある。

 この日は、平塚駅から西へ向ひ、15社を巡り、二宮駅から帰途についた。バスは、一日乗車券\1030-を利用したので、短距離でも抵抗なくバスに乗れた。

写真




「忠魂碑」大正拾五年五月六日の日付が刻まれ、明治二十七八年戦役・明治三十七八年戦役・大正三年乃至大正九年戦歿・西南役の殉難士名が刻まれてゐる。書は東郷平八郎。

「靖国之塔」「支那事変ヨリ大東亜戦争迄戦没者 昭和二十九年十一月十日建之 発起人ゆるぎ会」とある


脚注
  1.  相模国風土記稿 巻之四十一 の高麗寺村 の条 引用部分は、明治の翻刻本より
  2.  平成29年11月18日閲覧 歴史の町 大磯 前山茂編 大磯駅東側 No.32.慶覚院(けいがくいん)


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