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神明神社(神奈川県大磯町大磯)

作成日 平成29年11月18日
よみ  天照皇大御神 ( あまてらすすめおおみかみ ) 地理院地図
参拝日  平成29年5月19日(金)
所在地  大磯町大磯978 (北緯35度18分40.40秒 東経139度19分1.17秒)
 地図:地理院地図  いつもNAVI
HP等  神奈川県神社庁 神社詳細 神明神社
祭神  天照皇大御神 ( あまてらすすめおおみかみ )
由緒  境内に掲示があった。
神明神社  御由緒

 神明神社は法光院(廃寺)持ちで、古来紅葉山の神明台(現在の北の方)に祀られていたが、江戸時代中期享保年間(1716─35)に神明台から神明森(ふれあい会館付近)に一時遷座され、更に現在地に遷座された。神明町の地名発祥となり、神明町の氏神として信仰が厚い。
    御祭神  天照大神
 例祭は正月、五月、九月の二十一日で、元は神楽も奉納していた。現在の社殿は神明造で、昭和五年五月(1930年)総工費弐千壱百六拾壱円(現在の約壱億円)で再建。
 境内には明治元年(1868年)九月二十日、明治天皇は初めて京都を出発、東京に行幸途中、十月九日小田原宿をたち、昼には大磯宿の小島本陣へお着きになりました。昼食後、時間もあり江戸も近くなりましたので、天皇の長い旅路をお慰めしようと、北浜海岸(海水浴場)で、沖の岩の上に群がっている、からすに向って一斉射撃をさせましたが、一瞬呼吸があわず全部逃げ去られてしまいました。初めての事なのでとてもお喜びになられました。その後 角打(大砲)がはじめられ轟音をとどろかせました。そのころ、漁師が地引網を入れ、角打が終わった時、地引網を揚げはじめましたが、網が海底の岩に引っかかったので、漁師がわれも、われもと飛込んで引き揚げました。この網に入った魚をたらいに泳がせ、掛け声勇ましく裸のまま天皇の御前に抱えて来ました。前代未聞のことなので、一同びっくりしましたが、天皇は人々の有のままの姿をご覧になりたいと思っていたので、非常にお喜びになられました。
 この日、天皇は小島本陣にご宿泊になり、内侍所御羽車(賢所 天照大神の御霊代のヤタノカガミを祭ってある腰輿)は神明神社に奉安された。昭和三年 大磯研究会(会長 鈴木 梅四郎)が建立した記念碑がある。朝倉 敬之 書
 大磯を発ち十三日には江戸城に入り、その日東京城と改められた。ちなみに東幸の費用は七十七萬両(現在の約七十億円)に上がったという。
 神明町在住で大磯八景の石碑を建てられた大磯小学校二代目校長 朝倉 敬之先生は小島本陣に明治天皇がご宿泊時、九歳であった。小野 懐之(初代大磯小学校校長)、中川 良知(初代大磯町長)に推挙され、「天皇行在所」と墨書し、天皇の御誉めに預かった。
 その朝倉先生直筆の「高来神社由来」の屏風が社宝としてある。
     平成十五年三月吉日


  明治元年十月九日御東幸之途次
   内侍所御羽車奉安之所
  明治元年十二月九日御還幸之途次
転記者注
・小野 懐之(やすゆき)は、文久元年(1861)に私塾「秉彜塾(へいいじゅく)」を設け、朝倉敬之はここで漢学・漢詩書を習得した。
・朝倉敬之(よしゆき)は、万延元年(1860)8月生れ。明治元年(1868)は、今で云へば八歳。
雑記  東海道線大磯駅から東へ0.3kmのところにある。

 日枝神社向拝の扁額の書も朝倉敬之(よしゆき)氏だった。

写真




「内侍所御羽車奉安之所」碑、背面には「昭和三年明治節 大磯研究会 外町内有志」とある。


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