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白岩神社(神奈川県大磯町西小磯)

作成日 平成29年11月25日
よみ  しらいわじんじゃ 地理院地図
参拝日  平成29年5月19日(金)
所在地  大磯町西小磯853 (北緯35度18分41.29秒 東経139度18分5.39秒)
 地図:地理院地図  いつもNAVI
HP等  神奈川県神社庁 神社詳細 白岩神社
祭神  伊弉諾命 ( いざなぎのみこと )
 伊弉冊命 ( いざなみのみこと )
由緒  旧村社
 次の掲示があった。
白岩神社のあらまし
祭神 伊弉諾命   イザナギノミコト (注1)
伊弉冉命   イザナミノミコト (注2)
若宇加能売命 ワカウカノメノミコト

昭和四十年代に『十二所権現縁起』と題する古文書が見つかり、を勧請したことが記されている。
(注1)(注2)は皇国地誌による。
神徳 五穀豊穣 交通安全 開運長寿

『当社は武運を守りかつ五穀を司取り給う御神なりとて(右大将頼朝公は)梶原景時を御名代として(当社に)幣帛を納めさせ給う』と縁起にある。
社格 西小磯の鎮守
由緒 遙か昔、西小磯に一人の童が現れて、跳びはねるような仕草をしながら『我は大和の広瀬の神なり この地を鎮守する 崇め奉れ』と言って地面にひれ伏した。
『若宇加能売命』を勧請し、この地に社を建ててお祀りした。
後の山が、海の方から眺めると白く光って見え白岩山と呼んでいたので、白岩神社と称えた。その後白岩権現社と称えたが、付近を通る人が落馬したり災難が降りかかるため現在の場所に社を移し、社名も十二所権現社と改めた。以来災難は無くなった。
明治の神仏分離政策により、再び白岩神社と称するようになった。
祭事  一月  一日  元旦祭
 三月  七日  例祭
十一月二十三日  新嘗祭
十二月三十一日  除夜祭

例祭当日は参道にて流鏑馬(歩射)が奉納される。
また、前日には宵宮があり、直会の神事がある。例祭の神事は、世襲で社人とよばれる人たちにより執り行われており、民俗学的に注目される。
大磯町指定民俗資料(無形民俗文化財)に指定されている。
社殿 往古は、現在より東の方に鎮座されていたと伝えられている。現在の地に移ってから、明治三十二年頃焼失同三十六年に再建された。
昭和から平成にかけたびたび修復が行われてきたが、老朽ははなはだしく、平成九年十月氏子崇敬者の浄財により現在の社殿を竣工させた。
旧社領 『家康公より代々御朱印壱石を賜わる 但しそれより以前には千石といえり 新田義貞北条氏直不功なる故段々小社となれり』と縁起にみえる。
境内 鳥居      昭和二十九年二月再建
石灯籠     明治三十八年三月奉納
手洗石     明治三十六年六月奉納
伊藤博文公小祠
藤公碑
曽我五郎足跡石 白岩山上にあり、仏足石に似たものではないかと注目されている。
資料 新編相模国風土記稿
『十二社権現社
村の鎮守なり、神体白馬に乗り弓矢を持り、往古は白岩権現と号せしと言、白岩は所在の字なり、例祭は正月七日、流鏑馬式あり、村民八右衛門是を勤むと言、天正十九年十一月社領一石の御朱印を賜ふ、(中略)鐘楼 天保四年の鐘楼を掛く』

天正十九年 1591年
宝暦 六年 1756年 十二所権現縁起
天保十二年 1841年 新編相模国風土記稿
明治十五年 1882年 皇国地誌
雑記  東海道線大磯駅から西へ1.0kmの所にある。

 「藤公碑」の碑文は700字ほどの漢文で、文字数が多く当webに文を入力する気力が涌かなかったので、碑面の一部だけ写して来ただけだった。一般に、読めない文字、PCで出てこない文字があって写すのは苦労する。当碑は、劣化がほとんど無く、その点、読取りやすい。

写真




藤公碑、碑の右奥に伊藤博文公小祠が写つてゐる

向拝欄間の彫刻(拡大写真108kB)


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