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田名八幡宮(神奈川県相模原市中央区(田名))

作成日 平成28年9月28日
よみ  たなはちまんぐう 地理院地図
参拝日  平成27年10月25日(日)
所在地  相模原市中央区水郷田名1-8-21 (北緯35度32分47.53秒 東経139度19分40.81秒)
 地図:地理院地図  いつもNAVI
HP  神奈川県神社庁 神社詳細 田名八幡宮
祭神  誉田別命 ( ほむだわけのみこと )
由緒  田名八幡宮社殿落慶記念碑があり、経緯を継ぎのやうに記してゐる。
田名八幡宮 神殿御造営由緒
 田名村は、昭和十六年の近隣八町村合併により相模原町田名として新生し、これを期に古くから田名村の村有地であった三栗山を共有財産として残すため、村社田名八幡宮に無償譲与を決議した。
 田名八幡宮の旧神殿は明治期の築造で、風格のある建物であったが老朽化が激しく、近年、新神殿御造営の機運が募った。折しも「国土交通省計画の「さがみ縦貫道路」建設に三栗山の土地の一部が国道用地として買収され、その補償金の支払が行われるに及び新神殿御造営の計画が一挙に具体化した。
 補償金のうち二億五千万円と篤志奉賛者からの多大な御寄進により、着工から二年一か月という期間で、御神殿・社務所・宮司住宅の建設及び境内の整備が行われた。
 新神殿の規模と風格は、本社の永い歴史にあって真に「平成の御造営」と呼ぶにふさわしい大事業であり、これらは地域の伝統である人々の和と結束、そして宮司・氏子中を始め関係各位のご尽力により成し遂げられたものである。
    平成二十一年九月吉日
      田名八幡宮建設委員会

また、社殿玉垣改修記念碑(昭和四十九年建立)には、「縁起によれば延暦十七年(798年)口名村総鎮守として勧請」され、祭神は「天地大明神(天常土命)をお祀りしてあったが慶安二年(1649年)一月二十日八幡宮を本社に遷座し」たと刻してゐる。新編相模国風土記稿巻68の田名村八幡宮の条には「慶安二年、社領六石一斗の御朱印を賜ふ」とある。

左下の写真の石について説明が、次のやうにあった。(一部は後の修正をうかがわせる部分がある)
 その昔、日照りが続いて農作物が枯れそうになった時、このばんばあ石を相模川に沈めると、不思議に飴が降ったのである。
 けれども多くの場合は嵐を呼んで大洪水となり、大被害をうけることがあった。
 それはあとに残されたじんじい石のさびしさの涙が怒りとなってのし返しだと考えられ、語りつがれていた。
 そこで、右側の代理の石を置くことによって、慰めれば怒りもおさまり洪水にはならないだろうと考えた。
 しかし、いずれにしてもばんばあ石を沈めるためには一大決心が必要である。
 干天の続きぐあい、作柄のくあいを見て誰かがきめなければならない。そしてそれを村会の議決に従うことにきめた。
 行事は正装の村長・神官・役員その他一般村民多数(觸れを出して集めた)が参加して「一の釜」(いちのかま)とよばれる深淵近くへ裸の若人が肩にかついで先頭に立ち、その他多数も全員で裸で続き、口々に「サーゲ サーゲ ロッコンショウジョウ」(降げ 降げ 六根清浄)と唱えながら両手で川水を石を担いだ人の頭からかけて置きの方へ運んで行って沈めたものである。
 願いがかなって雨となると、石を川から出してもとのところ(境内)へ安置したものである。
 この行事は、言い伝えによると少なくとも江戸時代中期からはじまり、大正時代末期まで続き、これに参加した実証の出来る人は現在まだ相当数いる。
   昭和五十年九月五日
      田名八幡宮
雑記  JR相模線上溝駅から西南西へ2.8kmのところ、相模川左岸の複数在る段丘面の最下段にある。
 境内には次のものがあった。
  • 疎水工事記念碑 大正九年 田名村の疎水工事沿革を安政五年烏山藩の隧道300間を含む工事から述べ、今般の大正二年完工、耕地整理も行はれた旨を刻してゐる。
  • 重要無形文化財 的祭 の碑  毎年一月六日に行はれる幼児が弓で的を射てその年の豊凶を占ふ神事。
  • 三栗山造林記念碑 昭和三十五年建立 四十二町六反四畝余の山林の造林緑化を組合を結成して行ったといふ。三栗山山頂は当社から西南西へ相模川を隔てた1.5kmほどのところにある。採石や道路建設で地形が変ってゐるやうだ。
疎水工事記念碑は水に苦労した歴史を物語ってゐるので、碑文を転記したかったが、撮影してきた写真では判読し難い部分があったので略したが、残念。


ばんばあ石、じんじい石。これらは天地大明神の祠と同じ基礎の上にある。(社殿御造営に際して設置位置を変へたものとみられる)


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