神社訪問記HP神奈川県山北町

八幡神社 (神奈川県山北町岸)

参拝日 令和3年4月28日(水)
作成日 令和3年11月13日(土)
改訂日 令和6年2月23日(金)
 
よみ  はちまんじんじゃ  
所在地  山北町 岸 1200
   (35度21分20.09秒 139度5分24.16秒)
 地図:地理院地図(ズームレベル15)
    マピオン(ズームレベル15)  
地図  参拝当時の地図です。(最新の地図は所在地欄のリンク先をご覧下さい。)
地理院地図、東西 59km×南北 55km の範囲の地図です
・東西59km 南北55km
印:当社位置


地理院地図、東西 1.13km×南北 0.94km の範囲の地図です
・東西 1.13 km × 南北 0.94 km、
印:本殿の位置
HP等  神奈川県神社庁 神社情報 八幡神社
祭神  菅原道真 ( すがわらみちざね )
 倉稲魂命 ( うかのみたまのみこと )
 素盞嗚命 ( すさのおのみこと )
 大己貴命 ( おおなむちのみこと )
 大山祇命 ( おおやまつみのみこと )
 月夜見命 ( つくよみのみこと )
 大山咋命 ( おおやまくいのみこと )
 天児屋根命 ( あめのこやねのみこと )
 建御名方命 ( たけみなかたのみこと )
 木花咲耶姫命 ( このはなさくやひめのみこと )
 大日孁貴命 ( おおひるめむちのみこと )
由緒  境内に掲示がある。次の様。
八幡神社由緒

鎮座地 足柄上郡山北町岸1900番地

祭神
一 應神天皇(おおじんてんのう)
一 菅原道真公(すがわらみちざねこう)
一 倉稲魂命(うかのみたまのみこと)
一 素盞嗚命(すさのおのみこと)
一 大己貴命(おおなむちのみこと)
一 大山祇命(おおやまつみのみこと)
一 月夜見命(つきよみのみこと)
一 大山咋命(おおやまくいのみこと)
一 天児屋根命(あまのこやねのみこと)
一 建御名方命(たけみなかたのみこと)
一 木花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)
一 大日孁貴命(おおひるめのみこと)
一 白山彦命しらやまひこのみこと)
一 白山姫命(しらやまひめのみこと)

縁起由緒

『新編相模国風土記稿』(1841年)によれば、八幡宮は「村の鎮守、本地仏三尊弥陀を安ず、三年に一度、祭祀を行う。祭日は八月十五日。往古は城山に在しを後年此の地、日月宮の社地に遷せしなり」と云う。加えて『般若院智積寺』の所有する貞享二年(1685年)当代十一代伝栄和尚の筆による縁起より抜粋すれば、「河村岸の鎮守正八幡大菩薩は、往古、河村城山の城主河村秀高公が城内に建立せられ、建立の年代は不詳なれども、秀高公開基菩提寺般若院智積寺の建立が高倉天皇(1161〜1181年)の御宇承安二年(1172年)なる故、同年代を遠く離るゝに○ず。その後、正平八年四月一日(1353年)、河村城落城するや、岸湯坂梵天山山下に遷し、更にその後、現在地字岸西谷戸、日月宮の社地に遷し奉り、村の鎮守の宮として村民の崇敬する所となれり」とある。

祭事

元旦祭   一月   一日
祈年祭   二月第一日曜日
例大祭   四月第一日曜日   
臨時祭   七月第二日曜日
新嘗祭  十一月第三日曜日
天長祭   天王  誕生日
大祓祭  十二月第三日曜日

 神奈川県神社誌(昭和57年)には次の様に載ってゐる(2)
由緒沿革 新編相模風土記稿によれば「村の鎮守。三年に一度祭祀を行なう。祭日は八月十五日。往古は城山にありしが、後年此の地日月宮の社地に移せしなり、村民所蔵の古図によればはじめ河村城内にあり、後梵天山に遷し後今の地に移せし」とある。

 新編武蔵風土記稿(天保12年)には次の様に載ってゐる(3)。( )内は割注部分。
八幡宮 村ノ鎮守。本地仏三尊弥陀ヲ安ズ。三年ニ一度祭祀ヲ行フ。祭日ハ八月十五日。往古ハ城山ニ在シヲ後年此地日月宮ノ社地ニ移セシナリト云。今村民所蔵ノ古図(彼村ノ条ニ縮図アリ。併セ見ベシ)ニ拠レバ始河村城内(今川村山北ノ属地)ニアリ後梵天山(今此名ヲ失ス。其地小名湯坂ノ東方ニ当レリ)下ニ遷シ其後今ノ地ニ移セシト見エ拝殿幣殿アリ。村民持。
 末社 日月宮(地主神ト云)
【上記の他、次の社名が載つてゐる。当社の祭神が多くあり、合祀された社があるのかと思ふので掲げておく。】
・神明社三 ・山王社四 ・山神社ニ ・諏訪社 ・稲荷社三 ・社宮神社二 ・子神社 ・第六天社二 ・日月宮 ・天神社 ・浅間社 ・文命社(文命西堤碑)
雑記  御殿場線山北駅から南東へ1.0kmの所にある。

 社殿に向って右手に社殿改築紀念碑がある。大正十一年に改築の工を起したが関東大震災で大きな損害を受けた旨記されてゐる。大正十五年四月三日の日付のある。碑文は変体仮名が多用され、私には読めない部分が少なくないので書写は控える。

 新編武蔵国風土記稿にある「文命社(文命西堤碑)」は、調べてみると、当社から南南東へ0.6km余の酒匂川左岸側にある。
 山北町と南足柄市の間を酒匂川が流れてゐる。宝永4年(1707)に発生した富士山の噴火(宝永噴火)による灰や砂が雨が降る度に流れ込み、川底を上げ、堤防決壊に至り平野部には大洪水を発生させた。右岸側の福澤神社には文命東碑がある。また、大口堤には案内板があり川の流れと堤の位置が判りやすく図にしてある。参考のため、その一部を最下部に載せた。
 宝永噴火は、宝永地震(東海・東南海地震)発生して49日後に噴火した。揺れによって誘発されたとする説がある。平成23年の東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)の4日後に富士山直下で強い地震が発生し、「噴火」の言葉が頭をよぎったものだ。幸ひ、10年を経て、富士山は一見静かだ。この一文を書きながら、備への拡充を考へ始めた。

写 真  (拡大写真は新しいタブ又はウインドウで開きます)
写真1
写真1 拡大 (1280×960)

社頭

存在感のある大木は、山北町指定天然記念物の くすのき

写真2
写真2 拡大 (1280×960)

階段の両脇に狛犬がある。(写真7参照)

写真3
写真3 拡大 (1280×960)

写真4
写真4 拡大 (1280×960)

写真5
写真5 拡大 (1280×960)

斜め前からみた拝殿と本殿

写真6
写真6 拡大 (974×894)

向って左は鳥居の扁額、右は向拝の扁額

写真7
写真7 拡大 (1315×557)

参道の階段脇(写真2参照)にある狛犬。台には昭和六年十月 と年記がある。

写真8
写真8 拡大 (960×1280)

くすのき。山北町による掲示があり次の様に記されてゐる。
山北町指定天然記念物
   八幡神社のくすのき
     昭和五十九年二月一日指定
(中略)
 八幡神社のくすのきは樹高約20メートル、根廻り7.2メートル、樹齢300年(推定)である。
 その姿は根本から約6メートルのところで大きく二つの幹に分かれ、しかも斜めに張出した巨木でその葉は幹がかくれる程茂っていて樹勢は旺盛である。
 又、根本の小枝は関東大震災(大正十二年九月一日)によって根本がさけて、その先端から生じたもので学術的にも貴重な現象である。郷土の貴重な天然記念物として、指定し、保護するものである。
    昭和六十三年六月
         山北町教育委員会


地図
地図 拡大 (1099×1305)

文命堤説明図

 新編武蔵国風土記稿にある「文命社(文命西堤碑)」は、調べてみると、当社から南南東へ0.6km余の酒匂川左岸側にある。
 山北町と南足柄市の間を酒匂川が流れてゐる。
 宝永4年(1707)に発生した富士山の噴火による灰や砂が雨が降る度に流れ込み、川底が上昇したため洪水が起った。
・噴火の翌年の梅雨末期に岩流瀬(がるぜ)土手・大口土手ともに決壊し平野部に流れ込んだ。
・大口土手は翌年復旧されたが川底が上がってゐたため、聖徳元年(1714)決壊し、酒匂川は16年間にわたり東流せず南流した。
・享保十一年(1726)田中丘隅によって大口土手は復旧され「文命堤」と名づけられた。岩流瀬土手も復旧された。
・その二ヶ月後、下流で堤が決壊し大水害となった。
・享保十九年(1734)岩流瀬土手・文命堤100間が流出してゐる。


出典・脚注
  1. 令和3年11月7日閲覧 神奈川県神社庁 神社詳細 八幡神社(令和6年2月23日追記;令和5年7月にwebページ一新のため、ページ不存在)
  2. 『神奈川県神社誌』神奈川県神社庁編 昭和57年(1982) p.417
  3. 『新編相模国風土記稿』 巻之十六 川村岸の条 (同書は天保12年(1841)完成。鳥跡蟹行社刊(明17-21)の活字翻刻本を引用。漢字は現在当用の字体に置換へた)

改訂記録
  • 令和06.02.23 ページ内の配置変更(スマホでの閲覧に配慮)。神社庁web神社情報のリンク修正。白地図の誤記修正(誤:東西290km×南北270km 正:東西59km 南北55km)

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