神社訪問記HP神奈川県山北町

天社神社 (神奈川県山北町向原)

参拝日 令和3年4月28日(水)
作成日 令和3年11月13日(土)
改訂日 令和6年2月23日(金)
 
よみ  てんしゃじんじゃ  
所在地  山北町向原(むこうはら)227-7
  (35度21分31.26秒 139度6分3.90秒)
 地図:地理院地図(ズームレベル15)
    マピオン(ズームレベル15)  
地図  参拝当時の地図です。(最新の地図は所在地欄のリンク先をご覧下さい。)
地理院地図、東西 59km×南北 55km の範囲の地図です
・東西59km 南北55km
印:当社位置


地理院地図、東西 1.13km×南北 0.94km の範囲の地図です
・東西 1.13 km × 南北 0.94 km、
印:本殿の位置
HP等  神奈川県神社庁 神社情報 天社神社
祭神  面足尊 ( おもだるのみこと )
 猿田彦命 ( さるたひこのみこと )
 大日孁貴命 ( おおひるめむちのみこと )
 日本武命 ( やまとたけるのみこと )
 建御名方命 ( たけみなかたのみこと )
由緒  神奈川県神社誌(昭和57年)には次の様に載ってゐる(1)
由緒沿革 創立年代不詳。往古は第六天峠に鎮座せられたが、中古より向原の東山北駅近くの森厳な宮地に移られた。近年東名高速道路の開通に伴い現在地に移転、昭和四十三年九月二十七日遷座祭を行う。建築は鉄筋コンクリートである。

 境内にある「天社神社建設記念碑」(昭和43年)には次の様に刻まれてゐる。変体仮名は現行の五十音仮名におきかえた。
天社神社は面足尊、猿田彦命、大日霊貴命、日本武命、建御名方命の外二方を祭り向原上本村1769番地外三筆の境内地二反二畝歩と隣接山林二反八畝歩の土地を有して向原公民館とならび國鉄御殿場線の北側国道246号線沿いに神殿があり従来第六天と称したが明治弐年二月に天社神社と改称され昭和二十七年八月法律改正に伴ひ宗教法人となる。 天社神社の社殿は國道に接して古色蒼然と鎮座し霊験あらたかにして氏子崇敬者の信仰あつく祭典行事も盛大に行なわれたが昭和の中期以後国道の交通量が日増しに多く騒音や交通事故等の危険も増大する現状に鑑み祭典行事はもとより自然と参詣者も途絶えがちで永代の風雪に耐えた社殿もひとたび風水害が起れば朽廃の懼れもあるとき折しも東名高速自動車道建設にあたり路線通過のため境内地の全部と山林の一部を提供せざるをえなくなり公民館とともに神域御変遷のやむなきに至つた。 昭和四十一年移転のための対策委員会を結成翌年五月地元地主会を通じて東名建設用地の賣渡交渉も円満妥結を見るにいたり新境内地の選定にあたつては地域の将来性と地元民の希望等充分に意を用い丸山の東麓上ノ平277番地外十筆三反八畝歩所有者山北町岸○崎倉治郎氏の特段の御理解により敷地の買収が円満に解結して天社神社の聖域と決定し委員会の名称を建設委員会と改めた神殿建築にあたっては藪田宮司をはじめ関係者各位の日夜惜しまぬ努力により境内地の造成は堀口組が社殿と公民館は日本建設株式会社が施行することとなつた。 昭和四十二年十二月二十六日地鎮祭と起工式を挙行翌四十三年九月二十七日藪田宮司の司祭により神社本庁から献幣使を迎え遷宮本殿祭ならびに竣工式の祝典を挙行した、新社殿は神明造りの古式とし耐震耐火構造の近代建築の粋を集め、あわせて社殿の施設に結婚式場と老若男女ひとしく会合出来る場所とするよう調度品その他乃選定にあたつては特に留意した、日本道路公団よりの移転補償費約四千万円を基礎に町当局から公民館助成金五十万円氏子崇敬者各位からの浄財約三百万円等総額四千六百万円の建設費を以て敷地の買収と境内地造成に約二千三百五十万円社殿造営に一千百十五万円公民館六百万円鳥居燈籠神輿庫等神社施設に約三百万円その他の諸経費を以て壱年有半の歳月を経て竣工した此の境内地は極めて地の利を得、然も閑静で向原全区を眼下に臨み我等区民の心のより所としてあがめ奉る守護神が鎮座するに最適の地である 時恰も明治百年を記念する佳き年にあたり有史以来の大事業を成就し得た事は向原区民並に関係者各位の深い御理解と奉賛のたまものでここに深甚なる謝意を表明しこれを後世に傳えるものである。
   昭和四十三年十月
天社神社建設委員会

 新編武蔵国風土記稿には次の様に載ってゐる(2)。( )内は割注部分。
第六天社 村ノ鎮守。神体ハ鏡面ニ観音ノ像ヲ鋳出ス。例祭八月九日。拝殿幣殿アリ。村持下同。又奥ノ院ト号スル小社アリ。(祭神詳ナラズ)
 神楽殿
雑記  御殿場線東山北駅から西へ0.6kmのところにある。

 

写 真  (拡大写真は新しいタブ又はウインドウで開きます)
写真1
写真1 拡大 (1280×960)

写真2
写真2 拡大 (1280×960)

赤い屋根の建物は旧社殿が納ってゐる。(写真5参照)

写真3
写真3 拡大 (1280×960)

写真4
写真4 拡大 (1280×960)

写真5
写真5 拡大 (1280×960)

灯籠は「大正四年十一月」と刻まれてゐる。

写真6
写真6 拡大 (1280×960)

手水石には「昭和八年十月 上本村遺族会」と刻まれてゐる。

写真の左端にあるのは、旧社殿の覆屋(写真5参照)

写真7
写真7 拡大 (1280×960)

写真右は「堅牢地神」、左は「浅間大菩薩」。手水舎と旧社殿の間に建ってゐる。


出典・脚注
  1. 『神奈川県神社誌』神奈川県神社庁編 昭和57年(1982) p.417
  2. 『新編相模国風土記稿』 巻之十七 川村向原の条 (同書は天保12年(1841)完成。鳥跡蟹行社刊(明17-21)の活字翻刻本を引用。漢字は現在当用の字体に置換へた)

改訂記録
  • 令和06.02.23 ページ内の配置変更(スマホでの閲覧に配慮)。神社庁web神社情報のリンク修正。白地図の誤記修正(誤:東西290km×南北270km 正:東西59km 南北55km)

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